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人類のふるさと [ことばの元気学]

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ぼくは足立区千住の生まれです。4本煙突(お化け煙突)の見えるその町で生まれ、小学4年までそこで育ちました。
が、戦災で、わが家はもちろんのこと、町全体が跡かたもなく消滅してしまった。見渡すかぎり、一面の焼け野原になってしまいました。
いまはまた、にぎやかな町に戻っています。が、そこに昔の面影はまったくありません。
だから、ぼくはいま千住へ行っても、「ふるさと」へ来たという感じがしない。ぼくにとっては、ただの、知らない町になりました。

その点、中学と高校時代を過ごした四国の松山のほうが、千住よりはまだ、「ふるさと」という感じがします。
でも、伊予弁がうまく操れないせいもあって、まわりの人たちはぼくを松山人とは思ってくれない。やさしく受け入れてはくれますが、それでもやはり、よそ者はよそ者です。
というわけで、ぼくには、どこにも「ふるさと」がないんですね。

でもそれは、ぼくだけじゃない、そういう人って、けっこういると思います。
そういう人には、自分自身のためのご当地ソングというものがありません。
ま、横浜の人だったら、

♪よこはま~ たそがれ~ ホテルの小部屋~

なんて口ずさむことができるし、
長崎の人なら、

♪あ、あ、あ、あ~ ながさき~は~ きょうも~ あめ~だ~った~

とうたうこともできます。が、 ♪松山~たそがれ~、とか、 ♪ああああ~千住はきょうも雨だった~、なんいうわけにはいかないんですね。(松山には「伊予節」というすばらしい民謡がありますが、とてもむずかしくて、ぼくの手には負えません)。

ま、寂しいといえば寂しい。でもね、よくしたもんで、神様はそういう寂しい人間たちのために、全国共通・万人共有の「ふるさとソング」を用意してくれています。
それは何曲もありますが、代表的なものは、なんといっても、小学唱歌の「ふるさと」でしょう。

 兎追いし かの山
 小鮒(こぶな)釣りし かの川
 夢はいまも めぐりて
 忘れがたき ふるさと

 いかにいます 父母
 恙(つつが)なしや 友がき
 雨に風に つけても
 思い出ずる ふるさと

 志(こころざし)を 果たして
 いつの日にか 帰らん
 山は青き ふるさと
 川は清き ふるさと

高野辰之作詞、岡野貞一作曲の名曲ですね。このコンビは、ほかにも「春の小川」とか「おぼろ月夜」など、いい曲をいっぱい作っていますが、1914年(大正3年)の小学唱歌6学年用として作られた「ふるさと」は、彼らの最高傑作といっていい。
前からぼくは、これを日本の国歌にしたらいいと思っているのですが、それはともかく、この曲の「ふるさと」は、特定のふるさとではない。ま、作詞した高野は長野県の出身で、この歌に出てくる「かの山」や「かの川」は、彼のふるさとの特定の山や川だという説もありますが、高野はそういう特定の山や川を通して、その向こうにもっと普遍的な山や川を見たのでしょう。
つまり、すべての日本人のふるさとを、みんなの心のなかにあるふるさとを、うたったんだと思います。

いや、もしかしたら、それは日本人に限らない。世界中のすべての人のふるさとかも知れません。

そう感じたのは、実は先日、月の探査機「かぐや」から送られてきた何本かの映像を見たせいです。
なんと、そのなかには、だれのアイデアか、「地球の出」の映像に「ふるさと」の歌声をつけて公開されたものがあったんですね。

「こういう映像には音楽なんかいらない」というのがぼくの持論ですが、これには参った。きょう(6月25日)の朝日新聞の「CM天気図」にも、これを最上の環境CMとして書きましたので、そっちも読んでくれるとうれしいです。






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箱根の山は天下の険 [ことばの元気学]

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むかし、友人に誘われて中国の長江下りをしたとき、黄山にもちょっと寄り道しました。世界遺産にも指定されている、中国一の名山であり、いくつもの山がほぼ直角にそそり立って一つの山を形成する天下一の奇山です。
高さは1873メートル。山にはほとんど階段がついているし、どうってことないだろうとタカをくくったぼくはばかでした。アホでした。
いやあ、そのたいへんなこと。ほとんど死にそうになって階段を登っていたとき、ふと口をついてこの歌が出てきたのには、びっくりしました。

箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼なお暗き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は
苔(こけ)滑らか
一夫関(いっぷかん)に当るや
万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴す(ならす)
斯く(かく)こそありしか
往時(おうじ)の武士(もののふ)

ま、へばりかけた自分を鼓舞しようと、思わずこの歌が出てきたのでしょう。
それと、もうひとつ、歌の中に出てくる「函谷関」という有名な中国の難所が、黄山のきびしさと結びついて出てきたのかもしれません。
結果的には、この歌にはげまされ、ぼくは黄山の頂上にたどりつきました。そして、二度とこんなたいへんな所には来ないぞ、と心に誓ったのでした。

それにしても、こんなむずかしい歌詞を、1か所も間違えることなく、すらすら歌えたのには、われながらオドロキでした。意味なんかわからなくても、言葉は音の調子でしっかりおぼえてしまうものなんですね。

子どものころ、この歌の歌詞にとまどった話は、尊敬する山口瞳さんが、週刊文春の「男性自身」の中で、実に面白く書かれていました。
で、それを読んだとき、ぼくも子どものころに、まったく同じ思いをしたことを思い出して、ゲラゲラ笑ってしまったものです。

ぼくの思い出でいえば、まず、「かんこっかん」がなんのことやら、さっぱりわからない。文字で見てもわかりませんが、ましてや「カンコッカン」なんて音で聞いても、ちんぷんかんぷんです。
「ばんじょうのやま」が前にそびえるのはわかるとしても、「せんじんのたに」が「しりえにさそう」となると、さっぱりわかりませんぜ、これは。なんと、いい大人になるまで、ぼくは「しりえにさそう」の「さそう」は「誘う」だと思い込んでいたくらいですから。
ま、思えば、誘っちゃ困る。転落してしまう。「支える」でなきゃたいへんです。
「ようちょうのしょうけい」も、降参でしたね。まさか、羊の腸みたいに、くねくね続く様子だなんて、羊の腹を切り裂いたこともないし、知ったこっちゃねえ、って感じ。
こんな調子で、初めから終わりまで、まったく意味が分からずに往時の中学生は大声で歌っていたんですから、こわいというか、すごいというか。
でも、いまぼくは、それでいいんだと思っています。意味なんかわからなくても、だんだんわかるようになってくる。それよりも、言葉の持つ音のうねりや響きの豊かさをからだで感じとり、そんな表現の海におぼれてみることの効用のほうが、実は大きいんじゃないかと思うんですね。

げんにぼくは、子どものころにわけもわからずおぼえたこの歌のおかげで、あの黄山の頂きにまで、なんとかたどりつくことができたのですから。


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元祖CMソングを訪ねて [ことばの元気学]

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ナポリを発って、ポンペイの遺跡へ。
ここへは、どうしても行きたかった。どうしても会いたい人がいたんです。
アメリウス・ケレルさん。
広告看板の制作者。
といっても、古代ローマ時代の人ですから、とっくに亡くなっています。
ただ、全盛期のポンペイの壁に、この人が書いた広告が残っているんです。
この時代は、もっぱら壁がメディアだったんですね。
で、いまも遺跡の壁に、さまざなな広告の跡ガ遺っているんですが、ケレルさんのがなんといっても傑作という評判で、前々からぼくはその現物を見たいと、思いつづけてきたんです。
そのコピーは、こうです。

皇帝の子ネロの僧侶デシムス・ルクレティウス・サトリーウス・ウァレンスの提供する20組の剣闘士と、その子デシムス・ルクレティウス・ウァレンスが提供する10組の剣闘士が、4月8日~12日にポンペイで闘技を行う。大がかりな動物狩りも行われ、日よけもつけられることになっている。―アメリウス・ケレルがひとり月光の下でこれを書いた。

ま、中身はふつうのお知らせ広告ですが、最後の一行がすごい!
「アメリウス・ケレルがひとり月光の下でこれを書いた」なんて。出来栄えに自己陶酔したのか、ちゃんと自分まで広告している。
いいなあ、こういう人間くさい人、好きだなあ、会ってみたいなあ、と前々から思っていたのでした。
でも、そんなことを面白がっているのは、ぼくだけらしくて、ガイドの標識も地図もない。現物を探し出すのがたいへんでした。
それだけに、やっとケレルさんの作品(らしきもの)を見つけたときは、カンドーしましたね。泣けましたね。

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というわけで、念願の広告とのご対面も果たし、次に向かったのは、これまた有名なベスビオ火山です。
そう、「♪ あか~い火を噴くあの山へ~登ろう~登ろう」という登山電車の歌で知られたあの山ですね。

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場所はポンペイのすぐそばなので、山のふもとにはすぐ着いたのですが、1880年にできた登山電車(写真上左)が1944年の火山活動で破壊されてしまって、それ以来ずっと動いていないんです。
近いうちにまた開通するということで工事をしていましたが、やむなくぼくらは、歩いて山頂に向かいました。
いやー、これが、けっこうきつかった。
でも、それだけに、山頂にたどり着き、はるかにかすむポンペイの遺跡やナポリ湾を眺めたときには、思わず出ましたね、ご当地ソングが。
といっても、思わず口をひらいたのはぼくだけじゃない、取材のクルーも、みんな歌いだしたんです。
「されば、合唱を!」 ということになって、イタリアの青い空にとどけとばかりに、ぼくらは全員で「フニクリフニクラ」を歌ったのでした。

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上がそのときの写真ですが、これを動かして山上の合唱を聞く勇気のある方は、どうぞ下の映像のプレイの矢印を押してください。ただし、おなかをこわして寝込んだりしても、当方はいっさい責任を負いません。
ちなみに、この歌は、1880年、せっかく立派な登山鉄道を作ったのに、さっぱり人がこない。そこで登山鉄道の会社が、ルイージ・デンツァという音楽家に頼んで作ってもらったCMソングです。作詞は土地の新聞記者。いまはすっかりイタリア民謡みたいな顔をしていますが、もともとはCMソング、それも世界で第1号のCMソングだったんです。
(もひとつちなみに、日本のCMソング第1号は、1927年、静岡鉄道が北原白秋に頼んで作ってもらった「ちゃっきり節」です。作曲は町田嘉章さん。これもいまやすっかり民謡扱いになっていますね)


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ナポりを見て死ね [ことばの元気学]

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戦前、ぼくが生まれ育った千住という町には、路地がたくさんありました。路地だらけの町でした。
路地というのは、幅がせまい。人がひとり通れる幅が、路地の幅の基本単位です。
いまの道は、クルマが通れるかどうかが基本の単位になってしまいましたが、昔はあくまでも「人の幅」が基本だった。だから、路地は人が主役で、クルマなんかは入れませんでした。
路地をはさんで、台所の出窓から、ぼくの母は隣の石川さんのおばさんと話し込んだり、煮物の交換などをしたりしていたものです。「路地コミ」ですね。
そんな路地の奥でぼくらはベーゴマをして遊んだり、立小便をして畳屋のおじいさんに怒られたり。いま思えば路地は、ホント、人間くさい、すばらしい空間でした。

戦後は、その路地がほとんど消えた。クルマが通れない道は道ではなくなってしまった。「ヒト尺」に代わって、「クルマ尺」が、文字どおり幅をきかすようになってしまいました。
かなしい。あの懐かしい路地に、もう一度会いたい……。
そんなことを思っていたら、なんと数年前、「路地に会う旅」に出かけましょうよと、NHKの人から声をかけられたのです。
「世界・わが心の旅」という番組です。

「行こう行こう」というわけで、ぼくは、イタリアのナポリへ行くことになりました。
どこへ行くか、あれこれ考えたあげく、「いまの地球上に千住を探すとしたら、それはナポリしかない」という勝手な結論に達したのです。
と言っても、いままで、ナポリへ行ったことはありませんでした。
半分、出たとこ勝負で出かけたのですが、ありましたねえ、ナポリには、昔ながらの路地がいっぱい。路地をはさんだ窓から窓へ、元気なおばさんたちが野菜や肉を受け渡ししたり、大声でけんかをしたりしていました。

ま、そんなわけで、「世界・わが心の旅ーナポリを見て死ねるか」という番組ができあがったのですが、その話は別として、なぜ「ナポリを見て死ね」というタイトルにしたか、ここではそのワケだけ、簡単に説明しておきましょう。

ご存じの通り、「ナポリを見て死ね」というのは、昔からある有名なことわざです。
「ナポリの美しさを見ずに死ぬのはばかだ」といった意味ですが、「見ずに死ぬな」ではなく「見て死ね」と言っているところがすごい、うまい。ナポリのよさを広告するみごとなコピーになっています。
で、ナポリの町の真ん中のにぎわう市場の中で、通りすがりのおじさんやおばさんに、カメラに向かってこのコピーを言ってもらったのです。つまり、ナポリ人によるナポリのCMを即席で作ってみたかったんですね。
これがなかなか面白かったので、この言葉をそのまま番組のタイトルにも頂戴した、というわけです。

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それはともかく、ナポリに泊まった夜、ぼくはホテルの近くのサンタルチア海岸を歩きました。
と、やっぱり出たんですねえ、口をついてこのご当地ソングが。

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♪ 月は高く 海に照り
  風も絶え 波もなし
   
  来よや友よ 船は待てリ
  サンタルチア サンタルチア

いいなあ。堀内敬三さんの名訳です。
ところが、ぼくが小さな声で歌っていたら、とつぜんうしろから、ぼくに合わせて歌う大きな声が聞こえてきた。びっくりしたなあ。
で、振り向いたら、なんと、イタリア人の太ったオッサン(漁師風)が、ニコニコしながら歌っているではありませんか。それがまた、すごいテノールで。
いま思うに、もしかしたらあれは、パバロッティだったのかもしれません。




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あのころhawaiiは遠かった [ことばの元気学]

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ハワイで思い出しました。
これ、1961年(昭和36年)の新聞に出たサントリー(当時はまだ「寿屋」と言いました)の広告です。

トリスを飲んでHawaiiへ行こう!

このコピーを書いたのは、寿屋の宣伝部にいた山口瞳さん。のちの直木賞作家ですね。ちなみに、同じ部屋には、のちの芥川賞作家・開高健さんが机を並べていました。

1961年といえば、戦後16年、日本が高度成長の入口にさしかかった年です。そう、「レジャー」という言葉がブームになった年でもありました。
が、それでもまだ、ぼくにとってのレジャーはパチンコくらいで、ハワイははるか遠かった。第一、まだ海外旅行なんて自由化されていませんでしたから、ぼくら一般人は海外へ行くことなんかできなかった時代です。

だからこそ、この広告は大ヒットした。
トリスを「買って」ではなく、「飲んで」というところもうまかったし、「ハワイ」が「ハワイ」でなく「Hawaii」であるところも、ぼくらに異国の風を運んできました。
そうか、Hawaiiか……!Hawaiiはi が二つだったのか……!

さらに、この広告のすごいところは、この時期、まだハワイへは一般人は行けなかったのです。だから、抽選で当たっても、ハワイへの航空券がもらえるわけじゃない。ハワイ旅行の積立預金証書がもらえるというわけです。そのうち、海外旅行が自由化されたら行けますぜ、という約束手形だったんですね。

実際には、この翌年、1962年に海外渡航の自由化が実現し、当選した人たちは無事、憧れのハワイ航路へ旅立ったようです。
きっとその人たちの中の何人かは、ワイキキの浜辺で、「憧れのハワイ航路」を口ずさんだのではないか、とぼくは思っています。
ちなみにぼくは、抽選券を8枚送りましたが、はずれました。アタマにきて、またトリスを買って飲みました。

それにしても、ハワイと言えば、まず、日米開戦の場となった真珠湾(パールハーバー)の名が頭に浮かんで当然なのに、なぜかそれは、まったく浮かばなかった。
浮かんだのは「晴れた空」であり、「そよぐ風」です。

♪ は~れた空~ そ~よぐ風~

そう、あの歌詞であり、あの旋律です。とくに、真っ青にひろがる空ですね。
そういえば、「終戦の日」と言われてすぐ思い出すのも,雲ひとつない真っ青な空です。



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ご当地ソングをうたう旅 [ことばの元気学]

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話は変わりますが、はじめてハワイへ行ったときのことです。
夕暮れのワイキキの浜辺を一人で歩いていたら、とつぜん、ぼくの口から歌が飛び出してきました。

♪ は~れた空~ そ~よぐ風~
 み~なと出船の~ 銅鑼の音(ね)楽し~
 わか~れテープを~ 笑顔で切れば~ 
 の~ぞみ果てな~い は~るかな潮路~
 あ~あ~あ~あこがれ~の ハワイ航路~

ご存じ(かどうか知りませんが)、戦後の昭和23年(1948年)に岡春夫さんが歌って大ヒットした曲です。
当時、中学生だった少年は、この歌にしびれて、焼け跡で声高らかに歌ったものでした。
そうそう、この歌は先日亡くなった石本美由起さんの作詞ですね。

それにしても、数十年前に歌ったあの歌が、なぜ、ひょいと口をついて出てきたのか。いまや中年のオッサンになった昔の少年は、自分でもおどろきました。
さっき街のおみやげ屋さんで売っていた「憧れのハワイ航路饅頭」のせいだろうか。
いや、違う。
このハワイの「空気」が、ぼくのなかで眠っていたあの歌を誘い出したのに違いない。
そうだ、いい歌というのは、「空気」になって、大気中に浮遊しているのだ。
だから、その空気を吸うと、自然にそれが音になってからだの中から吐き出されてくるのだ……。

ひとりで勝手にそんなことを思ったのですが、それ以来、ぼくは旅に出ると、その土地の風景の中で、ご当地ソングをうたうのがクセになりました。

NHKの「わが心の旅」でイタリアのナポリへ行ったときも、ひとりでこっそりいろんな歌をうたったのですが、それはまた次に。
 


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