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なださんのこと [ことばの元気学]
なだいなださんが亡くなった。
いまの世の中で最も尊敬できる、また最も信用できる人の一人だった。
お目にかかったのは、5回か6回くらいだが、そのたびにぼくは強い刺激をうけた。
はげしいひとではない。
温和で、ユーモア・センスあふれる、それでいて、ときどききびしい目をなさる人だった。
「広告批評」に出ていただいたのは、
1980年8月号での鶴見俊輔さんとの対談「戦争が宣伝されるとき」など、
4回くらいだったと思うが、どれもとても刺激的で面白かった。
最近では『老人党宣言』や、「ちくま」の連載「人間、とりあえず主義」など、
一貫して姿勢の変わらない、ときに目からうろこが落ちる思いをさせてくれるような、
いい仕事をしていらっしゃる。
とくに、ことしの「ちくま」3月号に書かれた「〝賢い国〟というスローガン」には感銘を受け、
あちこちに引用させてもらった原稿を書いていたところだったので、
なださんの訃報は、本当にショックだった。
「前の選挙の時、〝賢い国〟という選挙スローガンをを売りに出したが、どこの政党も買ってくれなかった。…自民のスローガン〝強い国〟に対抗できるのはこれしかない」
という書き出しで、なださんは次々に鋭いことばのパンチを繰り出してくる。
「少し想像力を働かせれば分かることだが、強い国のようなスローガンが受けるのは、国民が時代遅れの大国意識を持っている場合に限る。つまり大国主義の亡霊がいわせるセリフなのだ」
「強い国には、お金で最新鋭の武器をかき集めればなれる。政権をとれば、直ぐに防衛費を増やそうとする。その反対はありえない」
「しかし賢い国には、お金ではなれない。ということは、賢い国になるためには、お金を必要としないということだ。少し考えれば、少し賢くなれる」
以下、自民党政権の外交政策や景気対策を「賢くない」と具体的に批判したあと、こう結んでいる。
「賢い国を目指す党は、賢い党にならなければならない。原発反対は、それだけ唱えていても票にはならない。小選挙区での選挙は、野党が分立していたら、大きい党の思う壷だ。主張の異なる中小の党をひとつにまとめられるような、哲学を持つに越したことはないが、それが難しいなら、せめては共通に持てるようなスローガンが必要だ」
「〝賢い国〟は適当に曖昧で、それ故に抵抗感なく受け入れられる。中小の政党を一つにまとめうるスローガンだ。意見はいろいろあるが一つにまとまれるのは賢いことだ。そして賢い国民は賢い政党を選ぶ」
「ちくま」が手に入らないひとのために、少し長く引用させてもらった。
勝手にぼくは、これをなださんの遺言として受けとめたいと思っている。
求む・賢い顔。 [ことばの元気学]
吉田照美さんの「飛べ!サルバドール」(文化放送)で、久しぶりに吉田さんと世間話をしてきました。
翌日、番組のホームページにそのことが出ていたのはいいんですが、吉田さんとの雑談の中で出た上の広告が、ぼくが作ったように書かれてあったのは間違いです。
あれは30年ほど前に、「広告批評」が当時のトップクリエイターの人たちに依頼して作ってもらった反戦広告の試作品のなかの一つで、コピーは糸井重里さん、アートディレクターは浅葉克巳さんです。
吉田さんも番組の中ではっきりそう言っていたのですが、何かの間違いでホームページに誤記されてしまったんでしょう。
吉田さんと会ったのは、10年ぶりくらいだったでしょうか。相変わらず元気いっぱい、いいたい放題を言っていて、ぼくもつられていいたい放題を言って、楽しい時間を過ごせました。
上の広告のことは、その話の中で吉田さんが「いまこそこういう広告がほしい」と言ったのですが、憲法を変えるだの、原発を再稼働させるだの、ホント、世の中、完全に狂ってきた。
糸井さんたちに上の広告を作ってもらったのは、たしか1980年代のはじめごろだったと思いますが、当時は原発がどんどん作られて、新聞には原発の安全性をアピールする広告がやたらに登場したものです。
3・11以来、「日本再生」の声があちこちで起こり、その動きもあちこちで進んでいるようですが、どうもいまの政府のやり方を見ていると、日本を再生しようというときの「日本」は、3・11以前の日本を再生しようとしているように見える。災害も原発事故も起きる前の日本だ。
このことについては、高橋源一郎さんなど、すでに何人かの人たちが鋭く指摘していますが、ぼくもまったく同感です。
原発を輸出するなんていうのも、その現れの一つでしょう。
安倍さんは「強い国」をめざす、なんて言っていますが、もう経済大国や軍事大国は米さんや中さんにまかせておけばいい。ぼくは「強い国」なんかより、なだいなださんのいう「賢い国」をめざそうという考えに、全面的に賛成です。
でもなあ、いまの政界を動かしている人たちの顔ぶれをみていると、あまり賢そうな顔が見当たらないんだよなあ。人のことは言えないけどなあ。
あれはなんだったんだ? [ことばの元気学]
イラク侵攻10周年だそうな。
あの戦争でアメリカ軍の4487人が死に、イラク市民の11万〜12万人余(推計)が
死んだんだそうな。
いや、ひとごとじゃない。
あの戦争の開戦には、日本はいち早く賛成し、自衛隊が後方支援に出かけた。
すごい数の人たちが死んだことの責任は、日本にも、つまりぼくらにだってある。
あのとき、開戦に賛成した理由は、イラクが大量破壊兵器を隠し持っている、
ということだった。
が、それはとうとう見つからなかった。
つまり、無かったのだ。
フセインがつかまって、歯の検査をされている報道写真を見た。
が、彼の大きな口の中にも
大量破壊兵器は見つからなかった。
その後、フセインは絞首刑で殺された。
首に太いロープを巻き付けられている彼の報道写真を見た。
罪状は圧政と住民の大量虐殺ということだったらしい。
それで、結局イラクに平和は戻ってきたのかというと、
全然そうじゃない。
戦後も多くの市民が死んでいるし、テロがいまも絶えない。
戦争とその後の宗派の争いなどによるイランの国内避難民は約120万人にのぼるという。
いまさら何を言っても死者は帰らない。
だけど、日本はなぜあの開戦に賛成したのか。
結果的に大量破壊兵器が無かったことに対して、
どんな謝罪なり、弁明があったのか。
それとも、そんな犠牲より、日米の絆を強化することのほうが大事だったということなのか。
そういうことについて、
自民党政府なり党首なりは、国民に何かはっきり言ったのか。
憲法改定にむかって、いま日本はまっしぐらに進んでいる。
自衛隊は日本軍になり、徴兵制が敷かれることになるだろう。
こんな大事なことを、国会議員の半数で決めていいのか。
いまのままの3分の2ではダメなのか。
自信がないのか。
テレビ60年 [ことばの元気学]
今日(4日)から5日間、NHKのBSプレミアムで、「テレビの何がぼくらの何をどう変えたか」についておしゃべりします。毎日午前9時から約2時間です。タイトルは「テレビ60年・天野祐吉が選ぶ名番組」となっていますが、これはNHKがつけたタイトルで、こっちは膨大な番組を全部見ているわけじゃないし、NHKの都合で使えない番組もある。というわけで、テレビの果たしてきたプラスの役割を、いくつかの番組を例にお話しさせてもらったものと考えてくだされば幸いです。
第1日(2月4日午前9時〜/再放送2月20日午後2時30分〜)
テレビは現在進行形のジャーナリズム
「NHK特集 緊急報告 アキノ氏暗殺」
「ドキュメンタリー 謎の一瞬」
第2日(2月5日午前9時〜/再放送2月21日午後2時30分〜)
テレビではドラマもまた報道である
「連続ドラマ「おはなはん」第1回
「天下御免」第1回
「中学生日記」
第3日(2月6日午前9時〜/再放送2月25日午後3時00分〜)
テレビは読む旅・見る旅を〝する〟旅へ変える
「世界ふれあい街歩き」
「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体」
第4日(2月7日午前9時〜/再放送2月26日午後3時00分〜)
楽しみに映る〝いま〟
「バラエティ 夢であいましょう」
「ジェスチャー」
「私の秘密」
「チロリン村とくるみの木」
第5日(2月8日午前9時〜/再放送2月27日午後3時00分)
テレビは見る者を現場に立ち会わせる
「ガード下の東京」
「NHK特集 シルクロード 第5集 桜蘭」
ま、こんなに見ていられるかとお思いでしょうが、気が向いたらどうぞ。
それにしてもテレビって、本来持っている可能性の100分の1くらいしか生かしていないんじゃないでしょうか。
第1、自分をジャーナリズムだと思っていないふしがある。娯楽産業だと思ってるみたいなんですね。困ったことです。
いまみたいな時代こそ、テレビにがんばってもらわなくちゃ。
NHKプレミアムアーカイブス
ヤンキー内閣? [ことばの元気学]
「笑う子規」(天野祐吉選・南伸坊絵・筑摩書房)より
なんだかがっくりの年の瀬だが、
世の中にはいいことを言う人がちゃんといて、
まだまだ捨てたもんじゃないなあと元気づけられる。
橋本治さんとか高橋源一郎さんとか斎藤環さんとか……あ、そうそう、斎藤環さんと言えば、
昨日(27日)の朝日新聞のオピニオン欄に載っていた斎藤さんの話は面白かったなあ。
読んだ?
安倍政権の誕生は「ヤンキー社会の拡大映す」だって。
政権が変わるとさ、いつもマスコミって「○○内閣」ってネーミングするじゃない?
小泉内閣のとき、ぼくもテレビに聞かれて「ネコだまし内閣」って答えたことがあるけど。
で、こんどもまたマスコミは飽きもせずに、同じことをやってる。
もっとも、説明的なものばかりで、面白いネーミングには一つもお目にかかれなかったけれど、
斎藤環さんの話を読んで、「あ、これだ!」と思ったね。
ヤンキー内閣
斎藤さん自身が、こうネーミングしてるわけじゃない。
「いまの自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないか」
と斎藤さんは言ってるのね。少し抜粋させてもらうと、
「私がヤンキーと言っているのは、日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば、
まあなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性のことで、非行や暴力とは関係ありません」
「自民党の憲法改正草案が天賦人権説を否定していると話題になっていますが、義務を果たした人間にだけ権利が与えられる、秩序を乱さない範囲内で自由を認めるといった発想は、まるでヤンキー集団の掟のようです」
「ヤンキーには、『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えるのが苦手です。だから当座の立て直しには強いけれど、長期的視野に立った発想はなかなか出てこない。自民党が脱原発に消極的なのは、実は放射能が長期的に人体に及ばす影響なんて考えたくないからじゃないですか。『まあどうにかなるべ』ぐらいにしか捉えていない節がある」
「保守は知性に支えられた思想ですが、ヤンキーは反知性主義です。徹底した実利思考で『理屈こねてる暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。世論に押されて実はヤンキー化しているマスコミがその傾向を後押しし、結果、日本の政治が無意味な決断主義に陥っています」
「マスコミの多くは選挙結果に戸惑っていましたがサイレントマジョリティたるヤンキー層のことが全く見えていません。もはや知性や理屈で対抗できる状況にはありません。ある種の諦観をもって、ヤンキーの中の知性派を『ほめて伸ばす』というスタンスで臨むしかないというのが私の結論です」
これだけの引用では不十分で、ぜひ、新聞にのったインタビュー(聞き手は高橋純子さん)を読んでほしいが、安倍政権の本質をこれほど鋭く言い当てている発言を、ほかにぼくは知らない。
もっとも、これは決して他人事じゃない。ぼくもぼく自身のなかにあるヤンキー的な資質を矯め直さなくっちゃ、としみじみ痛感している年の瀬だべ。(それとも、ほめて伸ばすか?)
人間を笑うが如し年の暮(子規)
隠居はいそがしい [ことばの元気学]
江戸時代の隠居の三道楽は、一に園芸、二に魚釣り、三に研究・創作だったそうな。
ま、一と二は普通だが、究極の道楽は三の研究・創作だという。
そんな究極の道楽を楽しんだ代表的な人たちを紹介すると。
歌川広重さん。
火消屋敷の同心の長男。26歳で家督を養父の実子に譲って隠居。浮世絵の道に。
平賀源内さん。
高松藩士。26歳で家督を義弟に譲って隠居。江戸へ出て暴れる。
井原西鶴さん。
大阪町人の息子。33歳で剃髪、僧形で隠居。作家活動に。
松尾芭蕉さん
町名主の秘書から36歳で隠居。芭蕉庵に入って五七五の世界へ。
伊能忠敬さん
家督を長男に譲り、53歳で隠居。日本地図づくりの旅へ。
といった具合で、こういうご隠居さんたちの道楽が、江戸時代の華麗な文化を生み出す一部になっているのだ。
そう、隠居をナメちゃいけないのである。
経済大国なんて野暮なものに見切りをつけ、江戸時代の文化大国を復興しようとするいまこそ、
隠居力に期待されるところは大きい。
というわけで、面白いご隠居さんをお招きして「隠居大学」という対談のシリーズ番組をNHKの
ラジオ深夜便で月一回、二年前からやっているのだが、面白いんだよねえ、その人たちの話が。
暇のある人は本にもなって出ているから、読んでくれるとうれしい。(初年度分は朝日新聞出版、二年目のはNHKサービスセンターから)
ところで。
この大学のトップバッターで登場してもらった横尾忠則さんは、数年前に「隠居宣言」をした後は
カネのための仕事は一切やらず、描きたいものだけ描いているそうだが、
宣言前より宣言後のほうがいそがしそうだから、
隠居ってけっこういそがしいのだ。
ちなみに。
こういう話をすると、必ず、カネがある人はいいが、カネがない人間は隠居なんかできないという人が出てくるが、それは違う。
隠居に必要なのは、カネではない、チエである。
成長はもういい [ことばの元気学]
電球は1000時間で切れるように、いままでつくられていたんですって。
電球だけじゃない。
いまも電気製品の大半は、もっと長持ちできるのに、早く壊れるようにつくられているんですって。
そういう話は前から聞いてはいましたが、
それが本当の話であることを、みごとに実証したテレビ番組を見ました。
先日NHKで放送されたフランス・スペイン合作のドキュメンタリー番組「電球をめぐる陰謀」です。
このことはぼくの「CM天気図」にもちょっと書きましたが、ひどい話です。
つまり、電気製品が長持ちしたら、買い替えが進まない。
どんどん買い替えてもらうためには、早く寿命がくるようにしなきゃならない。
そうしなければ、大量生産・大量消費の歯車が勢いよく回らない。
歯車が勢いよく回らなきゃ経済成長が持続しない。
というわけですね。
こわれた商品の修理を頼むと、「買い替えたほうが修理より安いですよ」と買い替えをすすめる。
それもまた、この戦略の一環です。
こういう戦略を、番組では「意図的老朽化」と言っていましたが、
そう言えば60年代に読んだヴァンス・パッカードの「浪費をつくる人びと」という本にも、
このことは出ていました。
番組でいう「意図的老朽化」が、その本では「計画的廃物化」になっていた。
別の本には「計画的陳腐化」と訳されていたように思いますが、
planned obsolescence
ということですね。
パッカードのその本を読んだ時もぼくはショックを受けました。
が、60年代の日本というのは、経済成長のの入り口に立っていた時期で、
もうひとつ実感がわかなかった。
で、「意図的老朽化」なんて言葉もなんとなく忘れてしまっていたのですが、
「電球をめぐる陰謀」を見て、鮮烈に思い出したというわけです。
そう、いまの政治家や財界人は、やたrに「成長」を口にする。
「成長」抜きに未来は語れない、という。
それには大量生産・大量消費の歯車を
回し続けることが不可欠だという。
で、それは、原発抜きではとても考えられないという。
でも、番組の中でセルジュ・ラトゥーシュさんというフランスの著名な経済学者がいっていましたが、
それは「人間のための成長」ではなく、「成長のための成長」です。
彼によれば、いまのぼくらは、運転手のいないスピードカーに乗って猛スピードで突っ走っているようなものだという。永久につづく成長なんて絶対にあり得ないわけですからね。
「経済成長なき社会発展は可能か」というラトゥーシュさんの本を、野田さんに送ってあげたいと思いましたが、送ってもたぶんあの人は読まないでしょうね。
ところで、「電球をめぐる陰謀」の終わりのほうで、もうひとつ、ショッキングな話が出てきました。
ガーナの地方に捨てられている大量の電化製品のゴミの山です。
ナレーターによると、以前はここにはきれいな川が流れ、子どもたちの格好の遊び場になっていたそうです。
が、いまは先進国からどんどん運ばれてくる電気製品の廃棄物で埋まってしまっている。
ゴミを持ち込むのは法律で禁止されているので、タテマエは中古品ということになっているそうです。
が、実態は大半がゴミ。
これも話には聞いていましたが、映像で見るとぞっとする。
成長経済が垂れ流す、これはウンコの山です。
もう手遅れかも知れない。
でも、なんとかしなくっちゃ。
隠居なんかしてるときだ! [ことばの元気学]
ずいぶんさぼっちゃったなあ。
昼寝をしてたわけじゃない。
1年間つづけた「クリエイターズ・トーク」とか
NHKラジオ深夜便で3年目に入った「隠居大学」とかで、
隠居もけっこういそがしかったのだ。
でも、「クリエイターズ・トーク」が無事終わって、
近々それが青幻舎から本になることになって、
それがまた、尊敬する葛西薫さんの装幀で出ることになって
やっと一息。
これからまた、ぼちぼち書こうと思う。
そのしょっぱなからナンだけど、
この本の刊行記念に、今月の30日(月)午後7時から
新宿の紀伊国屋サザンホールで、トークイベントをすることになった。
お相手は箭内道彦さん。
これからの広告について、とことん話し合いたいと思う。
3・11以後、広告って変わったと思う?
これでいいと思う?
よかったら、ぜひ来てください。
くわしくはこちらへ。
なあなあ主義となしくずし方式 [ことばの元気学]
「ひとりひとりの決意も新たに」というキャッチフレーズを見て、
「ひぇー!いよいよ原発再稼働か」なんてあわてちゃいけない。
これは1987年5月の新聞に出た東京電力の広告です。
が、近頃のテレビや新聞を見ていると、またぞろこんな広告が出てくるんじゃないか、
それもずっと先の話じゃない、近いうちに出てきそうな感じですね。
なんてたって、この国の政治家たちはの特技は、
なあなあ主義
と
なしくずし方式
ですから。
ところで、この広告に出ている人たちは、当時の東京電力で働いていた方々です。
「福島第1・第2、柏崎刈羽原子力発電所で働く、私たちからのメッセージです」と、
いちばんうしろに書かれていますが、もちろんそんなことはない。
すべては広告会社が書いたもので、この人たちには、社名で引っ張り出されただけのことです。
本当に責任のある人は、いつだって、こういう人たちのうしろに隠れているんですね。
ま、それはともかく、2度とこんな広告が出てこないようにしなければならない。
ぜったいに、なあなあ主義となしくずし方式を許してはいけない。
原発のない世の中、成長神話に踊らされない世の中。
そういう世の中にしなくっちゃ、と思います。
「ぼくに将来をください!原発の無い社会を!」
1980年・BBU(西ドイツの環境保護団体のポスター)
信じられない [ことばの元気学]
東電が電気料金値上げだんなんて、信じられない。
沖縄防衛局長が宜野湾市の市長選をめぐる「講話」をしてたなんて、信じられない。
ついでに真紀子さんの旦那のよれよれぶりも、信じられない。
石原さんとか亀井さんとか、後期高齢者が新党つくって日本再生だなんて、信じられない。
なんて書き始めたら、自分も信じられないようなことをしてしまった。
ぼくがプロデュースしてきた「クリエイターズ・トーク」は、
先月、最終回の大貫卓也さんで無事終了。
これはまた信じられないくらい充実して面白かったのですが、(ありがとうございました)
番外編として予定していた佐々木宏さんの回が、どうにもならない佐々木さんのお仕事の都合で、
中止せざるを得なくなってしまいました。(信じられない)
で、すでに前売りなどで予約をいただいていた方、本当にごめんなさい。
佐々木さんも「ごめんなさい」と言ってます。
なお、返金などについてのお問い合わせやご連絡はクリエイターズ・トークのHPへお願いします。
それはそうと、12回にわたって行われた「クリエイターズ・トーク」の濃い中身は、
近いうちに本になって出す予定です。その節はよろしく。
装幀は葛西薫さんに頼もうかな。
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