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ちょっと寄り道 [あんこ学]

こんな話を聞いたことがあります。
昔、中国では、何かのコンテストをしたとき、順位を1位・2位・3位……とはいわずに、1品・2品・3品……と呼んだんですって。が、すぐれてはいるけれど、どうも同じモノサシでは計れないような、個性の強いものがある。そういうものには、1品、2品……の序列とは違う、「別品」という言い方で評価した。きれいな女性のことを「別嬪」というのは、そこからきてるんですね。ついでに言うと、別嬪は女性とは限らない。男にも使いました、いえ、ホント。
で、一茶です。古今の俳人ベストテンをあげろ、と言われたら、1位は芭蕉だね、2位は蕪村かな、と並べていくことになるんでしょうが、さて、一茶の扱いがむずかしい。ああだこうだと考えたすえに、やっぱり小林クンは「別品」だな、ということになるんじゃないでしょうか。
この人は信州の雪深い山村に生まれて、お母さんが早く死んだもんだからいろいろ苦労して、15歳のときにほとんど身ひとつで江戸に出て、渡り奉公などでをしながら俳諧を習い覚えて、なんとか食べられるようにはなったものの俳人番付の上位には入れなくて、最後は郷里に戻って土地の有力者たちに俳句を教えて暮らすという、ま、そんな不遇の人生を送った人なんですね。
そんな人生の影が、彼の俳句のそこここに映りこんでいますが、しかしその表情は、ときに軽妙、ときに洒脱、ときに痛烈、ときに風雅と、本当に多彩な魅力にあふれています。そんなこんなを考え合わせると、やっぱりこの人は、「別品」中の「別品」ということになりそうです。
  ともかくもあなた任せのとしの暮
  衣(ころも)かえてすわってみてもひとりかな
  蚊やりから出現したりでかい月
  家なしがへらず口きく涼みかな
  隙人(ひまじん)や蚊が出た出たと触れ歩く
  牢屋から出たり入ったり雀の子
  昼の蚊やだまりこくって後ろから
  送り火や今に我等もあの通り
で、この人の俳句は、つぶあんかこしあんか、ということになるんですが、つぶあんとも言えるし、こしあんとも言えるんですね。でも、ぼくの評価は、つぶあんでもこしあんでもありません。そう、別品の「白あん」なのでした。 
というわけで、今回の目のおもてなしは、前にもご紹介した最中の再登場です。この白あんの盛り上がりぶり。こんな最中は見たことない。最中の「別品」とはこのことです。 


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粋と粋 [あんこ学]

去年亡くなった杉浦日向子さんが、以前、こんなことを言っていました。
「上方の粋と江戸の粋。同じ粋でも、上方は<すい>で江戸は<いき>なんですね。で、上方の粋は、たとえば十二単のように美しいものを上へ上へと重ねていく。それに対して江戸の粋は、余計なものをどんどん脱ぎ捨てていくんです」
とても面白い話で印象に残っているのですが、それはさておき、西日本が文化の中心だった平安時代から、鎌倉、室町、戦国時代を経て江戸期になると、文化の重心が東日本に移っていきます。というか、上方と江戸の2極文化時代になっていくわけですね。
この時代の大きな特長は、文化の担い手が権力者や貴族から大衆の手に移ったことで、江戸時代の300年間は、経済成長もほとんどゼロなら、人口もほとんど変わらないのに、歌舞伎やら浮世絵やら、みごとな大衆文化の花が咲いたことです。ホント、この時代の日本は、世界でもトップクラスの文化大国だったと言っていいでしょうね。それも上から与えられた文化じゃない、大衆が自分たちの手で作り出し、育て上げた文化です。
俳句も、この時代のものです。室町時代の連歌から、俳諧連歌がおこって、それからさらに俳諧が独立して「連句」が生まれていく。もともと、俳諧の「俳」も「諧」も、滑稽とか洒落というイミですから、それは和歌のように大まじめじゃない、ことば遊びの要素が強いんです。だからこそ、大衆の間にも浸透していくわけで、軽妙洒脱なものから駄洒落づくしのものまで、初期の俳諧はつぶあん的なエネルギーに満ちていました。
その俳諧に、室町時代の「幽玄」に通じるものを呼び覚ましたのが「古池屋」の芭蕉さんですが、この人は、まさに俳句界の元祖こしあん本舗と言っていいでしょう。
  梅が香にのっと日のでる山路かな
  五月雨(さみだれ)をあつめてはやし最上川
  むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
みごとですね、ことばのこの漉しぐあい。17音のなかに、何百粒ものことばが漉されている。これを「粋」と言わずになんというか。でもね、ホントのことを言うと、ぼくは芭蕉さんはご立派すぎて、もうひとつ近寄りがたい。やっぱりぼくは、一茶さんが肌にあうんです。で、とりあえずきょうは、一茶さんの句だけ、いくつかご紹介しておきます。さて、これは何あんか。
  うまそうな雪がふうわりふわりかな
  思う人のそばへ割込むこたつかな
  年よりや月を見るにもナムアミダ
  あの月をとってくれろと泣く子かな
  雪とけて村いっぱいの子どもかな

きょうのおもてなしは、四国松山銘菓「薄墨羊羹」です。これ、うまいぞなもし。

   


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縄文クッキーはいかが。 [あんこ学]

「イノモト和菓子帖」という本があります。著者は、猪本典子さん。和菓子の銘菓135品を選び、その写真に短文を配した、とてもおしゃれな本です。写真もいいし、本づくりのセンスもいい。和菓子の持つ品位に本づくりがすこしも負けていないって感じです。著者の猪本さんが、まえがきの結びに、こう書いているのも気に入りました。
「あんこの恋しさって、好きな人を想う感じに似ているかもしれない。」
(リトルモア刊・2000円+税)

話は一転、「縄文クッキー」です。「お前の話は国語の古典の授業みたいでしんどい」という声が野に満ちているようなので、急遽、今回は歴史の授業にきりかえます。(またか)
で、「縄文クッキー」。縄文時代といえば、いまから1万年くらい前から2000年くらい前という大昔ですが、後期のころの縄文人は、ちゃんとクッキーなんか作っていたんです。
材料はイノシシやシカの肉。または栗やクルミなどの木の実。これを砕き、ウズラの卵や山芋をつなぎにして焼きあげたお菓子です。肉を使ったものはハンバーグ状、木の実を使ったものはクッキー風のものでした。ま、クッキーなんか食べて、「きょうも元気だ、クッキーがうまい」なんて、平和にやっていたわけですね。
が、次の弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀)になると、世の中、音を立てて変わりはじめた。北東アジアから大量の渡来人がやってきて、西日本を中心に弥生文化を急ピッチで定着させていくんです。で、その時点から、縄文人と渡来人が入り混じった西日本と、渡来人の影響をあまり受けなかった縄文人(この人たちももともとは東南アジアからやってきた来た人たちですが)の東日本、という東西2分化の構図ができあがっていったようです。
この構図は、その後も根強く残っていく。縄文人は四角い顔で眉が濃くて目が一重、弥生人は面長で眉が薄くて目が二重、といった違いは、もうごちゃごちゃになってしまいましたから、亭主が縄文くんで女房が弥生さんなんてはっきりわかる家庭はない。しかし、方言の分布や生活習慣の面では、いまも東西の違いはかなり残っているといっています。そう、正月の餅は西は丸くて東は四角い。弥生さんは面長で縄文くんは四角い顔だったことの名残が、そんなところに残っているのです。(うそつけ)
そうなんです、前にも書きましたが、「バカ」と「アホ」の方言分布ね。東にいるのはバカで、西にいるのはアホ。大阪から東京にアホが転勤してくると、その日から彼はバカになるわけです。(ならないって)
そして、あんこ。いまでこそ、ごちゃごちゃになってしまいましたが、しばらく前までは、あきらかに西はこしあん、東はつぶあんでした。この傾向は、いまでも多少は残っています。なぜ、西はこしあんなのか。前からしつこく言っているように、この国の文化は、少なくとも関が原の戦い(これも東西の激突です)までは、もっぱら西日本で成熟したからなんですね。
そういえば、「イノモト和菓子帖」に載っている銘菓も、やはり、京都を中心に西日本で作られているものが多いようです。


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万葉は極上のつぶあんだ。 [あんこ学]

「万葉」の世界は、おおらかで、力強くて、とよく言いますね。これをあんこにたとえれば、上等のつぶあんが持っている美の世界だと、万葉なんてよくも知らないくせにぼくは思っています。
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな(額田王)
 あなみにく賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る(大伴旅人)
 旅びとの宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(遣唐使人の母)
 吾が夫子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまうな(狭野茅上娘子)
二番目の大伴旅人の歌はおかしいですね。「みっともないねえ、賢ぶって酒を飲まないやつの顔をよくよく見てると、猿にそっくりだぜ」なんて言ってる。
それはそうと、最近ぼくは、金子きみさんという口語自由律の歌人を知りました。1908年生まれで、90歳のいまも元気に歌をつくっていらっしゃる。「金子きみ歌集・草の分際」という本が、短歌新聞社から出ていますが、これがいいんですね。まさに草の視点から、20世紀のこの国に生きてきたひとりの人間の生活をうたっています。
 嫁ぐ日が近い火ほどの恋愛はついに無かった澄み切った月
 広島に落とされた爆弾の噂につかまって鍬にぎれない
 私のあばら骨の中で夫と子供が肉をつつき巣を作る私を見失う
 ものがあふれ太陽が輝き人々は微笑をたたえているから不安なんです
 二人一緒に住む幸は何だろう老いてようやく分からなくなる
 欅の梢で耳を立てている雲よわたしにもいろいろあったがあっただけだよ
この力強さ。この率直さ。ある人が万葉のよさを、「のちの王朝和歌にくらべると、人々の生活の場に密着した歌が多く、その瞬間瞬間の感動が巧まぬ叙情として率直に表現されている」と言っていますが、それはそのまま金子さんの歌に通じるように、ぼくは感じています。
この中で「のちの王朝和歌」と言っているのは、「万葉集」から100年あまりあとに出た「古今和歌集」のことですね。そういえば、確かに「古今集」のほうは、うんと洗練されてくる。おしゃれになってくる。
 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける(紀貫之)
 月見ればちぢにものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど(大江千里)
といった調子です。優美というか、繊細というか、独特の美意識のなかで、心の風景をシンボリックにうたいあげていく歌風ですね。
これはこれで、なかなかいいもんじゃ、と、このあんころ爺などは思うのですが、万葉ファンに言わせると、なんじゃこれは、ということになる。カルビーのポテトチップスじゃあるまいし、こんなうすっぺらになりやがって、というわけです。
あの正岡子規も「月見れば」の歌をこてんこてんに叩いてますね。「我が身ひとつの秋にはあらねど」って、あたりまえじゃないか。秋はあんたひとりのもんじゃない、みんなのところにやってくる、そういうトンマな説明をするな、このおたんこなすといったぐあいです。
が、それもわかるけど、でもそうかなあ、万葉は田舎くさいぜ、風情がないぜ、ださいぜ、とてもつきあってられないぜ、という古今派もいるわけで、この対立はとても面白い。で、その論争に耳をかたむけていると、どうも、「こしあんかつぶあんか」という論争にとても似ているように思えてくるんです。そうなんですね、さっき万葉は上質のつぶあんみたいだと言いましたが、古今集は良質のこしあんなんです。
その良質のこしあんがさらに300年ほど経って「新古今集」になると、これはもう極上のこしあんになります。
 村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)
 玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋うる宿の秋風(藤原定家)
 鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになりゆく我が身なるらむ(西行法師)
これはもう「幽玄」の世界ですね。万葉派はますます鼻もひっかけなくなるのですが、その話はもうやめましょう。ここで大切なことは、ぜんぶ漢字で書かれていた万葉に対して、古今集ではひらがなが使われるようになった、ということです。これは日本語史上の、日本の文化史上の大事件ですね。「女」と「おんな」が違うように、ひらがなの発明は、当然、日本語表現の質をキメこまかく変える。さらに、新古今集になると、「本歌どり」といって、先人の作った歌の用語や語句をとりこんで新しい歌に仕立てる手法なんかも出てくるんです。言ってみれば、つぶあんのつぶつぶを「漉す」ように、ことばのつぶつぶを漉してソフト化するというか、ソフィスティケートする手法が生まれてきたといっていいでしょう。
もっとも、だから、つぶあんのほうがえらい、というわけではありません。和歌に限らず、おおらかで率直なものは、つねに優美で繊細なものに洗練されていく傾向がある、というだけのことです。で、おごる平家は久しからず、洗練が行きつくところまで行くと、それは内部からじわじわ腐りはじめ、ついには次の率直勢力にとって代わられる、ということになっていくのですね。

つぶあん~ブリーフ~そば~ジーパン~万葉集
こしあん~トランクス~うどん~スカート~古今集

と、日本文化を支える2大流派を尋ねて、性懲りも無いこじつけの旅をつづけてきましたが、ああ、まだまだ先は長そうだなあ。

 ということで、きょうは七草。七草がゆを食べて、ついでに、山田屋まんじゅうが作った「名水しるこ・きら」という汁粉を食べました。もちろんこしあんですが、これがなかなかの逸品で、まさに「幽玄しるこ」といった趣きがあります。利休さんなんか、こういうの、好きだろうなあ。あ、ついでに、到来品の「もみじまんじゅう」も食べよう。おいおい、大丈夫か。(もちろん大丈夫ですが、近ごろ、大丈夫ということばが乱用されていると思いませんか。先日も喫茶店で「お水のおかわり、大丈夫ですか」と聞かれたので、軽く手を振ったあと、「いえ、男ではありますが、大丈夫ではありません」と答えました。ウエートレスさんに聞こえないように小さな声で)


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百人一首だあ。 [あんこ学]

正月ですね。正月といえば、昔は百人一首でした。
「逢い見ての後の心のくらぶれば昔はものを思わざりけり」
これが、ぼくの得意の札です。作者は権中納言敦忠。この札を人にとられたことは、まずありませんでした。
でも、歌のイミは、よくわかりませんでした。「恋をすると、昔はあまりものを考えなかったことがわかるなあ」というくらいのイミかと思っていました。
ところが、どっこい、おなじみ(?)の橋本治桃尻語訳によると、こうなんですね。
「実際にやった後からくらべれば昔はなんにも知らなかったなあ」
つまり、「逢い見る」というのは、「逢って見つめあう」なんてものじゃない、ずばり、「肉体関係を持つ」ということなんだそうです。
ちなみに、中納言朝忠の、
「逢うことのたえてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」
という歌は桃尻語訳ではこうなります。
「セックスがこの世になければ絶対にこんなにイライラしないだろうに」
正月早々、へんな話のようですが、百人一首の世界って、もっとひろげれば和歌の世界って、かなりきわどい中身のものが多いんですね。あのころの貴族って、特にすることがないから、愛とか恋とか、そんなことばっかりしていたみたいです。
そんな歌が多いのに、ぼくらがべつにいやらしく感じないのはなぜでしょうか。それどころか、いい歌だなあとか、きれいな歌だなあなんて感心しているのはなぜでしょうか。
イミがよくわかってないから、というのも、もちろんあります。が、なんとなくイミはわかっても、そんなに露骨さを感じない。思うにそれは、ことばの力、表現の力じゃないでしょうか。ことばの選び方から形容の仕方、さらには、音読したときの音の響き方まで、そこには高度のレトリックが駆使されている。「逢い見る」という行為が、そういうことばの働きを通して、人間的なもの、切ないもの、美しいものとして描かれているわけですね。
百人一首を藤原定家さんが編んだのは鎌倉時代ですが、これが延々といまの世まで生き延びてきたのは、ひとつにはゲームとしての完成度が高いというこもありますが、やはり、百首に煮詰められた日本語の魅力にもあるんじゃないでしょうか。ちなみに訳者の橋本さんも、こう言っています。
「たいした内容の歌でもないのに、昔の言葉にすると、とても深い内容で、美しいイメージがあるように見える。大切なのは、そのことです。どんなことでも、言い方によっては、美しくなるし、深くなるのです。現代語訳は、そんな言葉の美しさを知るための参考だと思ってください」
そんなわけで、百人一首は江戸時代にも人気がありました。で、あの北斎さんも、「百人一首・うばがえとき」というシリーズを遺しています。これがまた、いいんだよねえ。時代考証なんかにとらわれずに、歌われた世界を自由に、ときにはパロディックな視点も入れながら、面白く描ききっている。ちょっと、見てください。
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬとひとには告げよ海人の釣舟」
という、島流しになった小野たかむらの歌を北斎はこう描いています。

島流しの舟は沖のほうに小さくあって、手前には海女さんたちのの逞しくもエロチックな姿が描かれている。ふつうだったら、逆でしょう。第一、海人は男だっていいわけよね。でも、こうすることで、つまり、民衆の世界の明るさを前面に出すことで、逆に沖の舟に乗っている主人公の悲しみが伝わってくると思いませんか。すごいねえ、やっぱり北斎って。ちなみに、フランスの印象派の画家たちにおおきな影響を与えただけじゃない、音楽家のドビュッシーの「海」という名曲も、北斎の絵がヒントになったという説があるんですね。
いやあ、きょうは正月で酒がはいっていて、大脱線をしてしまいました。そう、和歌の話なんです。和歌も万葉集のころはつぶあんだったぜ、というところからモンダイテイキをしようと思ったのに、もう夜中になってしまいました。
で、つづきは次回。こんな話じゃコメントのしようがないよ、なんて言わずにしてください。しろ。深夜サービスとして、最後に、尾形光琳がデザイナー兼イラストレーターとしてつくった百人一首をお見せします。昔、京都の大石天狗堂で買ったものです。


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色即是空、ゴーン! [あんこ学]


ご存じ、安珍と清姫です。一目ぼれしてモーゼンとせまる清姫から、安珍は言葉巧みに逃げるのですが、それでもあきらめぬ清姫は、蛇身と化して追いかけていく。道成寺に逃げ込んだ安珍は寺の僧侶たちに頼んで鐘の中に身を隠すのですが、清姫はそんなことではあきらめない。大蛇となってその鐘にからみつき、火焔を吐いて鐘ごと安珍を焼き殺してしまう。見てください。焼かれた鐘の中から、黒焦げの安珍がコロリと出てくる絵がこわいですね。


それにしても、鐘にうらみはかずかずござる、亡くなった歌右衛門の「娘道成寺」は、ホント、すごかった。美しさも絶品でしたが、それだけじゃない、こわいんです。白拍子の美しさのなかから、ときどき、ギラッと蛇性の目が光る。あの人の娘道成寺が見られる時代に生まれ合わせて、本当によかったなと思います。ぼくらが出している「広告批評」という雑誌で、歌右衛門さんと淀川長治さんの対談をやったときは、うれしくってもうドキドキものでした。
ま、それはともかく、その説話の舞台をいちど見てみたいと、だいぶ前ですが、紀州の道成寺へ行きました。物静かなたたずまいのお寺で、本堂には国宝や重要文化財の仏像がたくさん置いてあるのですが、やはり観光客に人気があるのは、鐘つき堂の跡なんですね。もちろん、鐘はありません。呪われた鐘はどこかへ持ち去られてしまっていて、いまは鐘つき堂の台座みたいなものだけが残っている。そのまわりに人びとが集まって、思い思いに「ない鐘」を見上げているんですね。
ないんですよ、鐘は。ないのに、みんな見ている。ないものの先にある何かを見ている。そいう目をしている。そうなんですね。この道成寺の名物は「ない鐘」なんです。「ない鐘」が、人を集めているんです。「色即是空、空即是色」……あるからない、ないからある。思わずぼくは、この言葉を思い出してしまいました。
で、こしあんです。こしあんは小豆で作っているのに、小豆が見えない。口に入れても、つぶあんほどには小豆に特有の味や匂いが感じられないんですね。頼りないというか、存在感がないというか。しっかりしなさいよ、どうしてお前はそうなの、と、つい言いたくなってしまう。
でもね、思うに昔の人は、とぼくは思うのですが、小豆がへんに自己主張して、「おい、おれだおれだ、おれはここにいるぜ」なんて言っているのがいやだったんだと思う。小豆がへんにがんばっている姿を見て、「みっともない」と感じたんじゃないでしょうか。だいたい「頑張る」というのは「頑なさを通す」ということで、江戸時代には嫌われた言葉だったんですね。(亡くなった杉浦日向子さんがよく言ってましたっけ)。個性とか自我とか、そんなみっともないものは恥じて隠すのがふつうであって、それでもなお、隠した下からはみ出してきてしまうものが個性だ、と言えばいいでしょうか。
というわけで、小豆なのに小豆が見えない。あるのにない。でも、ないからある。なんだか禅問答みたいですが、もともと日本の文化は禅の落とし子みたいなところが多分にあるんですね。そんなこんなで、こしあんは、日本文化の本質を、あのとらえどころのない黒いからだで、精いっぱい表現しているんじゃないか、とぼくは思っているのです。
だが……です。そうは問屋がおろさない。そんな簡単に片づけられたら、つぶあん派の立場はどうなるんだ、ブリーフをはいてる人間は日本人じゃないっていうのか、この野郎いいかげんにしろ、という声が野に満つることでしょう。
そうなのです。話はこれでは終わらない。むしろここからまたはじまると言ってもいいのですが、つづきはまた来年、ということにします。どうぞいいお年を。で、来年もこのバカ話につきあってください、、どんどん意見を言ってください。
大晦日愚なり元日なお愚なり 子規
ゴーン!


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ちょっと道草。 [あんこ学]

とつぜんですが、「旧ソ連におけるリーダー交替の法則」という有名な法則があります。ただ、最近は知らない人がふえてきているようなので、今回はちょっと寄り道して、その法則をご説明しましょう。時間の無駄のようですが、こんなブログをのぞいてる人はどうせ暇なんだし、それにこの法則が、のちのちこのシンポシオンのなかで大きな意味をもつことにもなります。暮れでいそがしいだのなんだの言わずに、ちょっと聞いてください。

さて、この写真はソ連の歴代のリーダーを時系列に並べたものです。左上から順に、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフ、エリツイン、という顔ぶれです.正確に言うと、スターリンとフルシチョフの間にマレンコフという人がいるのですが、この人は8日間でフルシチョフに席を譲ったので、ここでは省きました。
さて、この8人の交替にどういう法則があったか。よく写真を見てください。わかりましたね。そう、なんと髪の毛が、はげ~ふさふさ~はげ~ふさふさ~はげ~ふさふさ、と、順番に変わっているんですね。ただし、5番目のアンドロポフと6番目のチェルネンコだけは在任期間も中途半端なら髪の毛も中途半端なので、ちょっと目をつぶっていただきたい。そうすれば、この法則はみごとに成立することになるのです。
だからさあ、お前、なんなんだよ、なんて言わないでください。こういうことって、実は、こしあんとつぶあんのモンダイ並みに、あるいはそれ以上に、大きなイミを秘めているのです。ひとことで言えば、時代という時間は、波のカタチをして進んでいくということですね。
いやはや、こういうことをもっともらしく言うのはとてもエネルギーを消耗します。だから、もうやめます。ただ、この法則だけは、一応、おぼえておいてくださいね。
年内にもう一回、更新するつもりですが、もししなかったら、あんころ爺はあんこにあたって寝込んでいると思ってください。


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こしあんは宇宙である? [あんこ学]

日本の文化が、中国の影響からなんとか抜け出して、独自の花を咲かせたのは、室町時代だといわれています。で、その代表は、なんと言っても、「茶の湯」でしょう。
あ、ぼくは伊右衛門をラッパ飲みしてるほうですから、茶の道のことはまったくわかりません。
でも、あちこちの有名な茶室をのぞいたり、りっぱな茶器を見たりするだけでも、(そうそう、元首相の細川さんも、いい茶器をつくるんだよなあ、血筋かなあ)、その洗練された美しさがわかります。あの芭蕉さんも、「一休の禅における、世阿弥の芸能における、宗祇の文学における、雪舟の美術における、その貫通するものはすべて究極」と絶賛していますが、この人たちと同じころに能阿弥という、連歌師で画家で鑑定家の人がいて、茶道の基礎を作ってるんですね。その後、数十年で千利休という天才が現れて、アートとしての茶道を確立した。茶室のツクリといい、その簡素な内装やインテリアといい、そこで使われるいくつかの茶道具といい、いやもう、洗練の極みといっていいように思います。
と言っても、伊右衛門をラッパ飲みしているぼくが、茶の道についてもっともらしいことを言ったら、それこそヘソが茶を沸かす。だから、そんな茶番はやりません。
ただ、ものの本によると、茶人のことを「数奇者」(すきもの)というんですね。で、茶碗の美を「数奇の美」、茶室のつくりを「数奇屋づくり」という。で、この「数奇の美」については、古来、いろんな解釈があるらしいんですが、岡倉天心さんは、「数奇屋」とは「好みの住まい」という意味であると同時に、余計な装飾を一切排除した「空き家」(すきや)だと言っている。人間の想像力を働かせるために、わざと何かを未完のままにしておく、不完全なままにしておく、そこに数奇屋の意味がある、というわけです。それに対して、柳宗悦さんは、完全とか不完全とか、そんな境界をこえたところにある「自由の美」こそ、数奇の美の本質だと言っているんです。ちょっとむずかしいけど、面白い話だ思いませんか。

そこで突然ですが、「こしあんの美」もまた、同じようなものではないか、とぼくは思うのです。たとえば、銀座木村屋のこしあんぱんは、実は「空き家」なんですね。あんこが入っているように見えるけれど、実は入っていない。いや、正確に言えばですね、そりゃ入ってますよ。でも、入っていることを意識させない。そこが、こしあんの数奇なところというか、風流なところというか、粋なところというか、好きなところなんですね、ぼくは。「おい、おれはあんこだぜ、あんこ人生もたいへんなんだぜ」なんて、へんな自己主張をまったくしない。
それはまるで、宇宙のようですね。宇宙は無の空間ですが、じつは無じゃない、ぎっしり何かがつまっている。でも、それを感じさせませんよね。
おそらく、こしあんをはじめて作った人も、あんこであることを感じさせないあんこをつくろうと思ったに違いない。自分の作ったものに「高級つぶあん」なんて、やぼなレッテルを貼りたくないと思ったんでしょうね。そうだ、作り手の技術や努力を、まったく感じさせないあんこにしよう。見える技術や努力は、しょせん貧しいのだ。

ぜったい承服できないでしょ? いいんです。承服しないでください。でも、こしあんを愛するには、このくらいこしあんにのめりこまなければいけない。こしあんのなかに身を投げなければいけないと、ぼくは思うんですね。
ということで、お疲れの目に、銀座木村屋の「五色ぱん」をどうぞ。写真は(上右から左へ)桜(こしあん)、つぶあん、こしあん、(下右から)白つぶあん、うぐいすあん。
念のため、桜あんぱんを二つに切ってみました。中が空っぽに見えるでしょ?え?見えない?そうですか。


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優雅なもの [あんこ学]

優雅なもの!
淡色に白がさねのかざみ!
雁の卵!
カキ氷にシロップを入れて、新しい銀のカップに入れたの!
水晶の数珠!
藤の花!
梅の花に雪が降りかかってるの!
メッチャクチャに可愛い子供が苺なんか食べてるの!

これ、知ってますね。そう、清少納言の「枕草子」第四十二段ですね。
ただし、これは原文ではなく、現代語訳。橋本治さんの「桃尻語訳枕草子」です。
いいんだよね、この訳文がまた。有名な第一段の冒頭「春はあけぼの。」のところは、「春って曙よ!」になってる。「面白いけど、やりすぎじゃない?」って、当時、橋本さんに会った時に言ってみたら、「これでいいの。彼女はこういうノリの人だったの」と叱られました。そうか、清ちゃんはこういう人だったんだ、と、以来ぼくは、清ちゃんにすごい親近感を持つようになりました。林真理子さんみたいな人だったのかな。
ま、それはともかく、この「優雅なもの」(原文は「あてなきもの」)のなかに、「カキ氷にシロップを入れて」とあるのには、びっくりですよね。1000年も前にカキ氷があった! いや、あったんですね、これが。でも、まさかシロップはないだろう、と思うでしょうが、これもあったんです。原文は、「削り氷にあまづら入れて」となっているのですが、氷を小刀でけずって甘葛煎(ツタからとった甘味料)をかけて食べたんです。たぶん、氷みぞれみたいなものでしょう。貴族の子女が、こういうのを食べている様子は、たしかに優雅だっただろうなあ、と思います。
ただし、この時代にはまだ、砂糖はなかった。砂糖が外国から入ってくるのは、まだだいぶ先のことです。でも、もしこの時代に、甘いあんこがあったら、清少納言は、氷あずきを食べたかも知れない。で、それはぜったいにこしあんであろうと、ぼくは確信しているのです。その確信はどこから出てくるか。それは次回のことにして、今夜は虎屋の最中を食べて寝ます。たぶん、優等生的な味でしょうね。
そうそう、虎屋って、室町時代からお菓子屋さんをやってるんですねえ。えらいですねえ。よくあきないですねえ。ま、あきない(商い)っていうくらいですからね。(お前、疲れてるよ、さっさと食べて寝なさい)





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ひつじのあつあつ。 [あんこ学]


広尾の日赤通りを歩いていたら、「麻布昇月堂」という和菓子屋さんに「新栗の蒸羊羹できました」という紙がはってあって、ふらふらとお店の中に入ってしまいました。
で、もちろん、新栗の蒸羊羹を買って、横にあった「一枚流しあんみつ羊かん」というのも買ってしまったのですが、「あんみつ羊かん」はともかく、「一枚流し」っていうのがいい。買わないやつはあんぽんたん(あんぱんまんじゃありません)だという気がしちゃいますね。
だいたい、この蒸羊羹というのが、懐かしい。いまは羊羹といえば練羊羹ですが、練羊羹ができたのはたかだか200年くらい前のことで、それまではずーっと、羊羹といえば蒸羊羹だったんですね。
ものの本によると、羊羹は、鎌倉時代に禅僧が中国(宋)からもたらしたのがはじめだそうです。禅文化と一緒に、抹茶と点心という食文化がやってきた。で、その点心の双璧が、饅頭と羊羹だったんだそうです。
実を言うと、ぼくは、あんこはまず最初につぶあんがあって、皮が邪魔だというんでこしあんが生まれて、それから羊羹が誕生したんだと思っていたんですが、どうも違ってた。
まず、羊羹があって、その羊羹づくりの過程からこしあんが生まれたらしい。で、そのときにはまだ、砂糖入りのつぶあんというのはなかったらしいんです。
それにしても、羊羹っていう名前はすごい。「羹」というのは、「あつもの」とか「汁物」のことですが、中国でのもともとの羊羹は、羊の肉をとろとろに煮込むか蒸すかしたものに、あつい汁をかけて食べるものだったんですと。すげー。ところが、日本には、馬鹿はいても羊はいない。それに、禅僧はタテマエ上肉食ができないので、羊の代わりに小豆や米や小麦などを粉にして、それを羊の肉に見立てて成型し、それを蒸したものに汁をかけて食べたんですと。すげー。その作り方を書いた当時の本によると、小豆を煮て皮をとり、それに葛粉と砂糖をまぜて蒸したそうで、その時点でもうこしあんは存在していたということになりますね。
それからいまの羊羹になるまで、羊羹もたいへんな旅をしてきたものだと、あらためて思いました。それを思うと、とてもおろそかには食べられない。「羊羹さん、ご苦労さん」とその労をねぎらって、昇月堂の新栗蒸羊羹を食べることにします。
(今回は青木直己さんの「図説和菓子今昔」にいろいろ教わりました)


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