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付録 [あんこ学]


つぶあんくんとこしあんくんが、「けっきょく、ぼくたちはどこがちがうんですか」と聞くので、蛇足の付録をつけておきます。ほんと、ひとの話をちゃんと聞いてないんだから。
こしあんくん

 

こしあんくん

つぶあんくん

下着の好みは

トランクス

ブリーフ

ジーパンはくなら

刺繍入り系

ダメージ系

アタマはもっぱら

貧毛系

多毛系

めん類たべるなら

うどん

そば

古典はいいねえ

新古今集

万葉集

暮らしのモットー

みっともない

もったいない

ごちそうになるなら

フランス料理

イタリア料理

野球選手といえば

イチロー

松井(または新庄)

 

(註)むかしの日本人はこのどっちかにはっきり分かれていたんだけどなあ、いまはごちゃごちゃになってしまったなあ、と嘆く人がいても、それはぼくのせいではありません。では、連休あけまで、ごきげんよう。


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号外! [あんこ学]


だいぶ前に、「みっともない」というモンダイについて書きましたよね。で、「路上のキスはみっともないか」「歩きながらモノを食べるのはみっともないか」などなど、いくつかの例を出して、みなさんのご意見をお聞きした。そのときのデータを参考にながら、「通販生活」の最新号(2006・夏号)に、8ページの「大人の絵本」を書きました。タイトルは「みっともない人びと」。絵はおおの麻里さんです。上は、そのなかの1ページ。ダメージジーンズはみっともないか、の絵の部分です。よかったら、見てね。それと、ありがとう。みなさんのお力ぞえのおかげです。なにかの機会に会えたら、あんぱんひとつ、あげるね。うん、こしあん。


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おまけだあ。 [あんこ学]


びっくり! 木村屋のあんぱんの広告が出ました。大型2枚つづきのポスターです。
「すし」と「てんぷら」と並べることで、日本の代表的食べものに格付けしてしまっている図々しさというか、逞しさがすばらしい。この逞しさこそ、歴史を通じて生き抜いてきたあんこの逞しさですね。
ぼくが延々としゃべってきたようなことを、たった1枚のポスターで表現してしまう。表現の力というのは、すごいものです。
ただ、あんこを口の端につけているモデルの女性がつぶあん的なのが不満ですが、いまはつぶあんが主流の時代だから、がまんがまん。


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あんこ東と西 [あんこ学]

徳川家康が江戸に幕府をひらいたときは、江戸は日本の政治&軍事センターにすぎませんでした。が、それからほぼ1世紀後の元禄時代になると、江戸は名実ともに京都と並ぶ日本の文化センターになっていました。
上方と江戸と、二つの文化センターが、せめぎ合い、競い合い、そのことで以後の日本文化は、面白い発展をとげていく。なにしろ、上方と江戸は別の国ですからね。縄文系の東日本国と弥生系の西日本国。国が違うから、文化の摩擦もそれだけ大きいし、進化も劇的になる。で、その中から、浮世絵が生まれ、歌舞伎が育ち、落語が出現する、といったぐあいに、この国は世界に冠たる文化大国になっていったのです。
この時期、京都の名だたるお菓子屋たちさんも、続々江戸に進出してきます。と同時に、江戸独自のお菓子屋さんも誕生する。歌舞伎や浮世絵や落語だけじゃない、お菓子の花もにぎやかに咲き競うことになります。

当時の上方文化は、本質的に貴族文化です。それに対して江戸の文化は町人の文化、庶民の文化でした。貴族文化にコンプレックスのある武士階級は別として、江戸の庶民は上方文化を無条件でありがたがっていたわけじゃありません。お上品ぶったものには「てやんでえ!」の精神で立ち向かい、江戸流に変形して受け入れています。
たとえば、「小倉百人一首」は江戸でも大いに流行しましたが、それをひねって「道化百人一首」とか「女房百人一首」とか「烈女百人一首」とか「祇園名妓百人一首」とか「今様職人百人一首」とか、いやもう、いろんな百人一首を作って遊んでいる。都の人たちもひまでしたが、江戸の人たちもけっこうひまだったんですね。

つまり、江戸の人たちは、上方文化というこしあんを材料にして、独自のつぶあん文化を作り出していったわけです。で、これがまた、上方にもいろいろ影響を与えていく。そんな上方と江戸の、もっと広く言えば東国文化と西国文化のキャッチボールを通して、摩擦と融合を通して、日本文化の花が大きく咲いたといっていいでしょう。

そんな上方と江戸の文化的資質の違いを、思いつくままに並べてみると、
  (上方) (江戸)
  優美―─洒脱
  洗練──素朴
  加工──素材
  懐石──寿司
  静謐――喧騒
  微笑――哄笑
といったように、いろんな違いが見えてくる。で、こしあんとつぶあんは、そんな違いの総元締めみたいなものだと思うんですね。(さらに、こしあん派はトランクスをはき、つぶあん派はブリーフを好むというのも、上の違いから自然にわかってきますよね。洗いざらしのジーパン派と刺繍入りのジーパン派の違いもね)

というわけで、古代から近代への時間的なキャッチボールと、上方と江戸という空間的なキャッチボールのなかで、この国の文化は生まれ育ってきたわけですが、そんな長く深い歴史を、ちいさなからだで一身に体現しているのが、実は「あんこ」ではないだろうかというのが、このばか話の主題でした。
つまらない話であなたの時間をむだにしてしまいましたが、あなただってひまだからこんなものを読んでいるに違いない。で、これでこりずに、連休があけたら、ぜんぜん違うテーマでまたばか話をしようかなと思っていますので、どうぞまたひまつぶしにきてください。こんどのは、読むだけじゃすまない、みなさんの知恵を借りながら進めていこうというテーマなので、すごくひまがつぶれると思います。

さらに生き続ける道を求めて、あんこはいまやジャムの世界にも進出しています。そのひとつをご紹介して筆をおきます、じゃない、あんこをおきます。パンに塗る小豆スプレッド。これってね、けっこううまい。あんこのソムリエがいうんだから、間違いありません。じゃあね。


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よっ!大納言! [あんこ学]

古くは中国から、新しくはアメリカから、この国を襲った大津波の話をしましたよね。そのたびにこの国はびしょびしょになるんだけど、水没はしない。日本式に水を吸い込んじゃう。で、縄文クッキーからアンパンまで、この国のお菓子も、それにつれて変遷してきました。その変遷について、いままでお話してきたことを整理すると―

まず、飛鳥・平安時代にやってきた中国津波の第1波で、「唐菓子」が入って来る。中山圭子さんの「和菓子ものがたり」(朝日文庫)によると、小麦粉や米の粉をこね、花や虫や縄などの形にして油であげたものらしい。そのほかにも、ソーメンやホウトウの元祖みたいなものも、この時期に入ってきたようです。ただし、砂糖はこの時代には貴重な輸入品で、唐菓子の甘味はもっぱら甘葛(あまずら)に頼っていたようです。清少納言のたべた氷みぞれのことを思い出してください。

次は鎌倉・室町時代にやってきた中国津波の第2波で、中国に留学していた禅僧たちが「点心」を日本に伝えます。「てんしん」じゃない、「てんじん」と読んでください。点心とはいまの「てんしん」と同じで、食事と食事の間にたべるものですね。その代表選手は、羹(かん)と饅頭でした。前にも言いましたが、羹はとろみのある汁物で、羊羹もそのひとつ。ただし、羊羹も饅頭も、砂糖を使ったものは高級品で、ふつうは饅頭の餡も肉や野菜を使ったものが一般的だったようです。ほら、肉まんの餡を思い出してください。

次は、戦国時代に、南蛮津波に乗ってポルトガルやスペインからやってきた「南蛮菓子」です。ポルトガルやスペインがなぜ「南蛮」か。それは、ポルトガル人やスペイン人が本国からではなく、彼らが交易していた南方の土地から日本にやってきたからです。彼らが伝えた南蛮菓子は、カステラ、金平糖、ビスケットなどなど。その特長は、卵や油を使ったものが多く、また砂糖もたっぷり使われていて、これが以後の日本のお菓子にも大きな影響をあたえました。が、徳川幕府の鎖国政策で、ヨーロッパの影響は一応せきとめられてしまう。それがどっと流れこんでくるのは、次の文明開花津波まで待たなければなりません。

ただ、結果として日本の鎖国政策は、和菓子の進化と成熟に大きく役立つことになりました。江戸時代になると、砂糖の国産化もすすみ、甘いものが庶民の口にも入るようになる。で、茶の湯の普及とともに、上質の餅やあんこを使った和菓子がどんどん現れてくるようになったのです。
その拠点になったのは、やはり京都ですね。京都は日本一ひまな町ですから、もう、手間に手間をかけて菓子を洗練していく。そう、菓子の「新古今集」を作っちゃったわけです。

それまでの日本の菓子は、どっちかというと、「万葉集」でした。おおらかでした。それが京都人の手にかかるとどんどん変わっていく。食ってうまきゃいいなんて、そんな粗野なもんじゃないんですね。そう、お菓子は五感で楽しんでおくれやす、ということになる。まず、四季の自然を模したデザインを目で楽しむ。次に、凝ったネーミングを聞いて耳で楽しむ。そして、香りを鼻で楽しみ、口に入れてその触感を楽しみ、舌でその深い味わいを楽しむというわけです。ああ、しんど。

さらに、教養も要る。ここがいかにも京都なんですね。テレビで知ったんですが、たとえば「鹿の声」というお菓子があります。そのイメージは、「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」という猿丸大夫の歌からとっているんですね。あるいは、「岩うつ波」というお菓子。この場合の原イメージは、「風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな」という、源重之が書いた美しくも悲しい恋の歌に由来しているんですって。

さて、これを聞いて、「いいですねえ、わびですねえ、優雅ですねえ」と思うか。それとも、「おいおいおい、たかが菓子じゃねえか、てえげえにしてくれよ」と思うか。その違いから生まれる文化的葛藤が、その後の菓子の歴史を作っていく。もう、おわかりですね。前者は西日本人(弥生人)、後者は東日本人(縄文人)のせりふです。これまで、タテの流れの中で進化をしてきた日本の菓子が、ここからはヨコのゆれのなかで深化をしていくわけですが、その整理はまた次回の話にして、これ、明治屋の棚にあった大納言です。小豆に「大納言」なんて。清少納言なんてメじゃない、大伴家持や藤原定家だって中納言どまりでっせ。おおげさというか、しゃれているというか、良くも悪くも、こんなところに日本文化の面白さが煮詰まっているんじゃないでしょうか。


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あんこ大国ニッポン [あんこ学]

日本人は、ひまつぶしのついでに小豆をつぶしてつぶあんをつくり、それでもまだひまなので、つぶあんをつぶしてこしあんを作った。日本文化の特質をひとことで言えば、ま、そういうことになります。これを日本あんこ学会では「天野仮説」と呼んでいますが、この日本あんこ学会というのはまだ会員が一人なので、まったく権威がないのが残念でなりません。ぜひ、皆さんのご入会をお待ちしたいと思っています。

それにしても、なぜ日本人は、そんなにひまだったか。小豆をつぶしてつぶあんを作るまではまだいいが、それをまた手間ひまかけてこしあんにするほどのひまが、なぜあったのか。つぶあんだけあれば、それでもういいではないか。
答えは、大野晋先生が指摘されているような「優しい日本の自然環境」にある。こんなに優しい自然環境に恵まれ、しかも四方を海に囲まれているような国は、世界にもほとんど例がありません。一年中ほとんど氷に閉ざされている国々や、酷暑の砂漠地帯に生きる人たちのことを考えてみてください。そりゃもうたいへんだぜ。きびしい自然環境と戦うことで、日々の時間の大半を費やしてしまう。砂漠地帯の人たちが、「よう、ひまだねえ。横丁の後家さんのところへ小唄でも習いに行かねえか」なんて言っていたという話は、あなただって聞いたことがないでしょう。

その点、この国の人たちは、自然と戦い、自然を征服するなんて、そんな手のかかることを、ほとんどせずにすんできた。そのぶん、よそよりもひまが生まれ、ひまつぶしの必要が生まれ、早くから文化の花が咲いた。もちろん、この国でも、時代により、地域により、ひどい苦労を強いられたケースもありますが、大まかに言ってしまえば、自然環境に恵まれた国ですよね、ここは。ひまな国です。
いや、ハワイみたいなとこもひまじゃないの、という人もいるでしょうが、ああいう島は、外国から隔絶していますから、隣接文化圏からの影響がほとんどない。モデルがないから、ひまつぶしに精を出したくても出しようがない。だから、島独自の文化はあっても、日本のような文化大国にはならないんですね。ま、太平洋よりは狭く、英仏海峡よりは広い日本海という海が、日本の場合は大きくモノを言ったわけです。で、これも恵まれた自然環境の内ですね。

以上が、日本文化成立の土壌です。天野仮説によれば、あんこ文化が生まれ育つお皿の特長ということになります。で、このお皿の上で、歴史的な流れによるタテの進化と、空間的な揺れによるヨコの深化が進んでいくわけですが、外は桜も満開のことですし、おらあ、ちょっと花見に行ってきますだ。

となれば、お供には、近江八幡たねやの末廣饅頭がよろしいようで。


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あんこ街道を行く [あんこ学]


はいはい、これは明治19年(1886年)につくられた錦絵広告です。
日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の場面を描いたものですが、右から二人目の太鼓を持った男にご注目。太鼓に書かれた「西洋菓子」の文字。そして背中に背負った「木村屋」の旗。そう、なにを隠そう、この男こそ、元祖さくらあんぱんの宣伝マンなのでありまして、
つまり、この明治19年ころには、こういうあんぱん宣伝隊が東京の街をドンドコドンドコ練り歩いていたというわけですね。

さてさて、このあんころ爺さんの旅も、そろそろ幕のひきどきがせまってきましたが、
①なぜ、あんこといえば小豆なのか。
②いつ、いかにして、あんこのビッグバンは起きたか。
③なぜ、あんこは日本文化そのものなのか。
という深遠なモンダイに言及するときがついにきたと思う。ゴホン。

で、まず、あんこといえば、なぜ小豆なのか。どうして、ソラマメじゃいかんのか。なぜに、さやえんどうじゃ困るのか。実は、これだけでも、その気になれば3ヶ月は語りつづけられるテーマなのですが、この際ひとことで言うなら、口当たりのよさと栄養価の高さ、そして一粒一粒の豆の内部にひそむ呪力のせいだと言ってしまおう。(あ、言ってしまった)
小豆が、ほかの豆類にくらべて口当たりがなめらかだということは、ま、だれでも知っている。まさに大野晋先生のおっしゃるような「日本の自然の限りないやさしさ」を、そのまま粒に凝縮した食べものが小豆なのだと言っていいでしょう。
その上、小豆はたんぱく質やビタミンB1を大量に含んでいて、脚気にも効く。ま、むかしの人はたんぱく質もビタミンも知らなかったでしょうが、経験的に「こりゃからだにええぞな」と気づいていたのはたしかです。げんに、疱瘡のはやった時代には、小豆を袋に入れて患者の枕にしたり、お供え物や薬がわりの食べものとして小豆が使われたという話も残っています。
それに加えて、小豆の中には、ほかの豆類にはない呪力が秘められている。前にも言いましたが、その赤い色から、祝い事に使ったり、魔除けに使ったり、そう、疱瘡のときに使われたのも、人々が小豆の中にそんな呪力を感じていた証拠です。ま、中国や朝鮮の一部にもそんな風習が見られるそうですが、とにかく、日本人にとって小豆は生活に欠かせない、というより生活の一部みたいなものだったと言っていいでしょう。

では、日本で8世紀くらいから栽培され、みんなに愛されてきた小豆が、あんことなってビッグバンを起こしたのは、いつ、いかなる事情によってか。
ビッグバンの兆しは、やっぱり、茶の湯の発展とともに現れています。「お菓子のない茶会なんて」というわけで、茶席に欠かせぬものとして、さまざまな菓子が生まれ、あんこが重用されるようになっていくわけです。
でもね、利休さんのころは、まだまだ質素だった。それがさまざまな色合いと味わいを持って菓子文化の花を咲かせるようになるのは、江戸時代も中期になってからのことです。将軍で言うと、八代将軍の吉宗さん、18世紀はじめのころですね。このころは、砂糖の国産化も進んで、甘いものがかならずしもぜいたく品ではなくなったきた、そんな時代です。
まず、京都でさまざまな意匠をこらしたお菓子が誕生する。その菓子が、次々に江戸や地方都市にも広まっていく。で、菓子を売る店が、あちこちに登場してくるようになります。貴族階級相手の御用菓子屋もあれば、お寺や神社の門前町で庶民を相手に店を開く菓子屋もあり、さらには団子や餅や飴を売って歩く行商の菓子屋もあるといったぐあいで、あんこの大衆化時代がやってきたわけですね。で、その原動力となったのは、ひまです。そう、ひま。

こう言っちゃナンですが、この時代のサムライや町人は、けっこうひまだったと思います。戦争がないからサムライはすることがないし、江戸の職人は午後の3時ごろまでしか働かなかったというから、ひまでしようがない。それがよかったんですね。
だいたい、ひまがなきゃ文化なんて花は咲かない。これはぼくの持論ですが、文化っていうのは「ひまつぶし」のことです。人間、ひまができると、それをつぶさなきゃなんない。ひまはあしたまでとっておくってわけにいきませんからね。
で、どうせつぶすんなら、面白くつぶそう、心がいきいきしてくるような、そういう楽しいつぶし方をしようぜ、というんで歌が生まれ、踊りが生れ、芝居が生まれ、絵が生まれ、その他いろいろな遊びや楽しみが生まれ、つまり文化ってものが生まれてくる。そう、「文化イコールひまつぶし」なんですよ。ですから、文化講演会っていうのはひまつぶし講演会、文化人っていうのはひまつぶし人間、文化会館っていうのはひまつぶし会館って言い換えたほうが、わかりやすいんじゃないかとぼくは思っているんです。
というわけで、この時期、つまり、ひまをもてあました江戸時代の中期から後期にかけて、日本に大輪の文化の花が咲く。で、世界でも最高の文化大国になった。それを具体的にあらわすものは、歌舞伎であり、浮世絵であり、落語であり、ということになっているのですが、どっこい、森の石松じゃないけれど、もう一つ、肝心なものを忘れちゃいませんか、ってんだ。そう、あんこです。この時期の日本は、まさにひまにまかせて、世界に冠たる菓子文化、あんこ文化をつくり上げたのです。

それにしても、あんこ文化は、なぜ日本文化そのものなのか。、次回までに、考えてきます。

(図版は「広告は語る-アド・ミュージアム作品集」より)





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神は細部に宿り給う [あんこ学]

とつぜんですが、若い友人の大槻あかねくんから、メールで絵が届きました。大槻くんとは、「絵くんとことばくん」(福音館書店)という絵本を作った仲間ですが、このブログを見て、「こしあんくんとつぶあんくん」のキャラクタを描いてくれたのです。で、ちょっとご紹介。右の頭のとんがったほうがつぶあんくんで、からだに斑点があるのですが、ちょっと見えにくいかな。

さて、先日、一六タルト社長の玉置泰さんの紹介で、赤福の社長さんと一緒に食事をしてきました。濱田典保さんというまだ若い方で、とても感じのいい人です。
で、いいこといっぱい聞いちゃった。そのうち、伊勢の本店へ行って、赤福を作ってるところを見せてもらったり、できたての赤福を食べさせてもらったり、あんこにまつわる話をゆっくり聞かせてもらおうと思っているのですが、きょうはひとつだけ面白い話を披露しちゃいましょう。
あのね、赤福のあんこの波形ね、あれって、女の人が手でやってんですよ。まず餅を入れてあんこを塗る、その作業をする女性をね、「餅入れさん」っていうんだそうです。
その作業は、朝早くからはじまる。なにしろ店は毎日朝の5時に開くので、それにあわせて始まるわけ。よくむかし、酒の麹をつくるのは、若い女性がお米を口の中でくちゅくちゅ噛んで、ぺっと吐き出したものを発酵させて麹にしたっていうでしょ。その女性は処女じゃないといけないとか。で、おっちょこちょいのぼくは思わず、「その餅入れさんは処女じゃないといけないんですか」と聞いてしまったのですが、ばかでした。反省しました。そんな人に限定していたら、とてもあんなたくさんの赤福は作れませんよね。
ただ、あの波形をつくるには、ほんと、年季が要る。最低2年は修業して、検定試験を通らなければ、あの仕事にはつかせてもらえないんだそうです。
それともうひとつ、(あ、ひとつだけのつもりがまたしゃべっちゃう)、赤福は西は兵庫、東は名古屋までしか売ってない。なぜか。めんどくさいからか。違う。欲がないからか。違う。それ以上、商圏をひろげて、あんこの鮮度がおちたりしたらいやだからですって。その日つくったものはその日に売る。翌日まで持ち越さない。そうなると、東京まではちょっと無理ってことになるんですね。

そんな話をあれこれ聞いていて、赤福のおいしさの秘密の一端にふれた思いがしました。そこまでテッテイしているから、赤福にはあんこの神が降臨しているのかもしれない。「神は細部に宿り給う」という言葉がありますが、赤福のあのきめこまやかな波形のなかに、あのこの神々が宿っているような気がしてくる一夜でした。

明日からまた松山へ行くので、きょうは早仕舞いにします。
きょうの目のおもてなしは、南青山の菊家のお菓子。ここは三津五郎さんなんかも来るところで、ちいさな店内に、品のいい和菓子がいろいろ並んでいます。左の三つは、どれもあっさりしたこしあんでした。


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自然のふところ [あんこ学]

前回は日本海の話でした。その後、「想像力の海」をめぐる絵本を出しました。「このよでいちばんはやいのは」(福音館書店・かがくのとも・390円)という絵本です。機会があったら見てください。

さて、想像力の海から実在の海に話を移しますと、この国は4面を海に囲まれた温暖の地です。4面を海に囲まれていても、ハワイやグアムのような所は、あまりに文明から離れすぎている。その点、日本の場合は、日本海というほどほどの大きさの海をへだてて、中国という巨大な文明国に向かい合っているのが面白いところですね。
しかもこの日本列島は、ほんとうに自然に恵まれています。こんなに自然にやさしく包まれていて、しかも、まわりを海が外敵から守ってくれている。こんな都合のいい国は、世界中さがしてもちょっと見当たらないんじゃないでしょうか。
近ごろは自分の住んでいる県や市に、スローガンをつけるのがはやってますよね。「いきいき富山」とか「さわやか徳島」とか。そのデンで日本にスローガンをつけるとしたら、「ぬくぬく日本」というのがいちばんぴったりじゃないかと、前々からぼくは思っています。いいでしょ、ぬくぬく日本。
で、そんなすばらしい自然環境の中にぬくぬく住んでいると、人間、どうなるか。ま、いまの日本は「せかせか日本」という感じですが、昔は、ホント、ぬくぬく日本だった。みんなぬくぬくしてた。だから、人間は、お互いに親切で、寛容で、和を大切にしたんですね。
砂漠のようなきびしい自然の中にで生きる人たちは、そうはいきません。ぬくぬくしてたら、生きていけない。自然と戦い、自然を制御し、自然を支配しようする。自然との関係が、日本人のような融和の関係ではなく、対立や対決の関係です。

だから、「自然に優しく」なんていう環境広告のコピーを見ると、ぼくはつい吹き出してしまう。自然がぼくらに優しいんであって、ぼくらが自然に優しくしようなんていうのは、ちゃんちゃらおかしい。へそが茶をお沸かしちゃう。ぼくらが自然に対してとれる態度は「畏れる」ということだけじゃないでしょうか。そう、自然を畏れる。恐れるんじゃなくて畏れる。敬い恐れるっていうことですね。
げんにぼくらのご先祖さんは、みんなそうしてきた。その結果が、日本人の資質をつくりあげた。日本語学の第1人者・大野晋さんも、こう言っています。

「(日本人は)朝昼晩の気温・温度の変化に合わせるのと同じく、常に相手に合わせようとし、成り行きに適応するのが大事だとする。なるべく相手を傷つけないように、相手に逆らわないように、お互いに仲良し倶楽部の一人となることを大切にする。これは裏返せば、一貫した原則を貫くことを大事にしないことである。自分の重んじる価値基準に従って行動の原則を通すと、<頑固者><偏屈><風変わり>というマイナスの評価を得る。つまり日本では、<我>を貫く一本の筋が重んじられない。むしろ、<我>は<我を張る><我が強い>として敬遠される。微妙な変化を繰り返しながら、自然がほどよく人間をくるんでいるのだから、その細やかさ、愛らしさに浸って生きるのが良いとされる」(大野晋「日本人の神」新潮文庫)

いやー、よくわかる。みごとな分析ですね。とくに、「微妙な変化を繰り返しながら、自然がほどよく人間をくるんでいるのだから、その細やかさ、愛らしさに浸っていればいい」というところを繰り返し読んでいると、あんこの誕生や、つぶあんとこしあんの間のゆらぎなどが、目の前にうかんでくるようじゃありませんか。
こういう日本人の特性をマイナスと見る人もいます。「そんなことだから、日本では個の確立が進まないのだ」とか、その他いろいろな批判も生まれてくる。でもね、これはいいとか悪いとかの問題じゃない。よくも悪くも、人間は環境の動物だし、文化もまた環境をは離れてはありえないんですね。
こうした背景もあって、とかく日本人は、「思想」よりも「美意識」で物事に向かい合う。「いいか悪いか」よりも、「カッコいいかカッコ悪いか」「粋か野暮か」が、大きなモノサシになってきたし、いまもその空気が濃いんじゃないかと、ぼくは思っています。

ところで、あんこもまた、こういう自然的・文化的環境と切り離しては考えられません。前にも書いたように、小豆は中国からやってきて、日本に根づきました。その色が赤いことから、慶事や弔辞の必需品になり、一方、あんことしてもたいへん愛用されるようになりました。あんこの最初は塩あんでしたが、砂糖の伝来とともに甘いあんこが華々しく登場し、以後、あんこは和菓子文化の強力な推進役になって、きょうまで歩んできています。
ほかの国でも小豆はできるし、使えるのに、なぜ世界の小豆の大半を日本が生産し、消費するようになったのか。あるいは、ほかの豆でもあんこはできるのに、なぜあんこといえばなぜ小豆ということになるのか。まさに想像力の海へ、思いはひろがるばかりですが、ありゃ、もうこんな時間になっちゃった。とりあえず、今回はこれまでにして、きょうの非おすすめ菓子は「えびチリようかん」と「焼肉ようかん」の二本立てです。この2本があれば、一日中「おえっ!」を連発できます。これはあくまで、わるのり遊びの産物なので、なるべく食べないこと。眺めて「おえっ!」と楽しむだけにいたしましょう。


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あんこの海 [あんこ学]


日本海という海がありますね。そう、あそこの海です。
あれは日本だけの海じゃない、ロシアの海岸も韓国や北朝鮮の海岸も、中国の海岸も、同じ水で洗われている。それを勝手に「日本海」と名づけるのはおかしいんじゃないかい、という声もあります。
そう、韓国ですね。あれは昔は「東海(とんへ)」と呼んでいたのを、日本が軍事力を背景に「日本海」と変えてしまったと言って、韓国は国連に地名変更を要請している。ま、実際は、昔、ロシア人が日本海とよんでいたのが、そのまま定着したらしいんですが、ま、政治的な話はまったく別にして、あれはよくも悪くも、やっぱり日本海なんですねえ。とぼくは思うんですねえ。なぜか。

ちょっとこの地図を見てください。まんなかの海が、そう、日本海です(わかってるって)。
このブログでしつこく言ってきましたが、その北にひろがる中国大陸ね、ここから、創成期の日本に文化の大津波がやってきました。で、以来、日本列島は、文化の面でべったり中国漬けになっていったわけです。
それは、朝鮮半島についても同じです。が、朝鮮と日本では、漬かり具合がかなり違う。古漬けと浅漬けの差がある。
その違いを、朝鮮は「洪水型」、日本は「雨漏り型」と名づけた人がいます。天下の碩学・丸山真男さんです。ちょっと、丸山さんの話を聞いてください。
「……洪水型は、高度な文明の圧力に壁を流されて同じ文化圏に入ってしまう。ところが、日本は、ポツポツ天井から雨漏りがして来るので、併呑もされず、無縁にもならないで、これに<自主的>に対応し、改造措置を講じる余裕をもつことになる。これがまさに<よそ>から入って来る文化に対して非常に敏感で好奇心が強いという側面と、それから逆に<うち>の自己同一性というものを頑強に維持するという、日本文化の二重の側面の<原因>ではないにしても、すくなくもそれと非常に関係のある地政治学的要因なのです。……」(「日本文化のかくれた形」岩波文庫)
明晰というのは、こういう言葉を言うんでしょうね。と、あらためて感嘆しながら、そうなんですね、つまりそういうことなんですよ、とぼくも思うのですよ。
つまり、地続きの朝鮮がモロに中国文化の波をかぶったのに対して、日本の場合は海が一種の壁になったわけで、そういう意味でこの海は、良くも悪くも、日本の運命をl決めた海であり、だからやっぱり、名前は「日本海」でしょう、と、ぼくは言いたかったのです。

さて、われらの小豆もまた、この海をはるばる渡ってやってきました。小豆だけじゃない、いろいろな豆たちが、♪はーるばる来たぜにっぽん…なんてうたいながらやってきたのですが、ほかの豆たちがその後も向こうで活躍しているのに対して、小豆だけは違った。小豆だけは、日本人にやたらに愛され、日本の暮らしにさまざまなカタチで取り入れられて、海外にはまったく見られないすばらしい「小豆文化」を作りあげるに至ったんですね。日本海を渡ってきて日本的に変形され、本国にもない大輪の花を咲かせた例の、これは代表選手と言っていいでしょう。
なぜ、それは小豆でなければいけなかったか。そこがポイントです。なぜ、大豆じゃいけなかったか。そらまめや、さやえんどうの、どこが気に入らなかったのか。ま、そのへんのことは、またの話にしますが、もし日本海の名前を、どうしても変えると言うんなら、ぼくは「あんこ海」としたい。そのわけも、またの話にさせください。

さて、きょうは川崎・末廣庵の「一斤染(いっこんぞめ)」です。全身栗だらけみたいなぜいたくなお菓子で、ぼくはいっぺんに二つたべてしまいました。


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