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万葉は極上のつぶあんだ。 [あんこ学]

「万葉」の世界は、おおらかで、力強くて、とよく言いますね。これをあんこにたとえれば、上等のつぶあんが持っている美の世界だと、万葉なんてよくも知らないくせにぼくは思っています。
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな(額田王)
 あなみにく賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る(大伴旅人)
 旅びとの宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(遣唐使人の母)
 吾が夫子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまうな(狭野茅上娘子)
二番目の大伴旅人の歌はおかしいですね。「みっともないねえ、賢ぶって酒を飲まないやつの顔をよくよく見てると、猿にそっくりだぜ」なんて言ってる。
それはそうと、最近ぼくは、金子きみさんという口語自由律の歌人を知りました。1908年生まれで、90歳のいまも元気に歌をつくっていらっしゃる。「金子きみ歌集・草の分際」という本が、短歌新聞社から出ていますが、これがいいんですね。まさに草の視点から、20世紀のこの国に生きてきたひとりの人間の生活をうたっています。
 嫁ぐ日が近い火ほどの恋愛はついに無かった澄み切った月
 広島に落とされた爆弾の噂につかまって鍬にぎれない
 私のあばら骨の中で夫と子供が肉をつつき巣を作る私を見失う
 ものがあふれ太陽が輝き人々は微笑をたたえているから不安なんです
 二人一緒に住む幸は何だろう老いてようやく分からなくなる
 欅の梢で耳を立てている雲よわたしにもいろいろあったがあっただけだよ
この力強さ。この率直さ。ある人が万葉のよさを、「のちの王朝和歌にくらべると、人々の生活の場に密着した歌が多く、その瞬間瞬間の感動が巧まぬ叙情として率直に表現されている」と言っていますが、それはそのまま金子さんの歌に通じるように、ぼくは感じています。
この中で「のちの王朝和歌」と言っているのは、「万葉集」から100年あまりあとに出た「古今和歌集」のことですね。そういえば、確かに「古今集」のほうは、うんと洗練されてくる。おしゃれになってくる。
 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける(紀貫之)
 月見ればちぢにものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど(大江千里)
といった調子です。優美というか、繊細というか、独特の美意識のなかで、心の風景をシンボリックにうたいあげていく歌風ですね。
これはこれで、なかなかいいもんじゃ、と、このあんころ爺などは思うのですが、万葉ファンに言わせると、なんじゃこれは、ということになる。カルビーのポテトチップスじゃあるまいし、こんなうすっぺらになりやがって、というわけです。
あの正岡子規も「月見れば」の歌をこてんこてんに叩いてますね。「我が身ひとつの秋にはあらねど」って、あたりまえじゃないか。秋はあんたひとりのもんじゃない、みんなのところにやってくる、そういうトンマな説明をするな、このおたんこなすといったぐあいです。
が、それもわかるけど、でもそうかなあ、万葉は田舎くさいぜ、風情がないぜ、ださいぜ、とてもつきあってられないぜ、という古今派もいるわけで、この対立はとても面白い。で、その論争に耳をかたむけていると、どうも、「こしあんかつぶあんか」という論争にとても似ているように思えてくるんです。そうなんですね、さっき万葉は上質のつぶあんみたいだと言いましたが、古今集は良質のこしあんなんです。
その良質のこしあんがさらに300年ほど経って「新古今集」になると、これはもう極上のこしあんになります。
 村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)
 玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋うる宿の秋風(藤原定家)
 鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになりゆく我が身なるらむ(西行法師)
これはもう「幽玄」の世界ですね。万葉派はますます鼻もひっかけなくなるのですが、その話はもうやめましょう。ここで大切なことは、ぜんぶ漢字で書かれていた万葉に対して、古今集ではひらがなが使われるようになった、ということです。これは日本語史上の、日本の文化史上の大事件ですね。「女」と「おんな」が違うように、ひらがなの発明は、当然、日本語表現の質をキメこまかく変える。さらに、新古今集になると、「本歌どり」といって、先人の作った歌の用語や語句をとりこんで新しい歌に仕立てる手法なんかも出てくるんです。言ってみれば、つぶあんのつぶつぶを「漉す」ように、ことばのつぶつぶを漉してソフト化するというか、ソフィスティケートする手法が生まれてきたといっていいでしょう。
もっとも、だから、つぶあんのほうがえらい、というわけではありません。和歌に限らず、おおらかで率直なものは、つねに優美で繊細なものに洗練されていく傾向がある、というだけのことです。で、おごる平家は久しからず、洗練が行きつくところまで行くと、それは内部からじわじわ腐りはじめ、ついには次の率直勢力にとって代わられる、ということになっていくのですね。

つぶあん~ブリーフ~そば~ジーパン~万葉集
こしあん~トランクス~うどん~スカート~古今集

と、日本文化を支える2大流派を尋ねて、性懲りも無いこじつけの旅をつづけてきましたが、ああ、まだまだ先は長そうだなあ。

 ということで、きょうは七草。七草がゆを食べて、ついでに、山田屋まんじゅうが作った「名水しるこ・きら」という汁粉を食べました。もちろんこしあんですが、これがなかなかの逸品で、まさに「幽玄しるこ」といった趣きがあります。利休さんなんか、こういうの、好きだろうなあ。あ、ついでに、到来品の「もみじまんじゅう」も食べよう。おいおい、大丈夫か。(もちろん大丈夫ですが、近ごろ、大丈夫ということばが乱用されていると思いませんか。先日も喫茶店で「お水のおかわり、大丈夫ですか」と聞かれたので、軽く手を振ったあと、「いえ、男ではありますが、大丈夫ではありません」と答えました。ウエートレスさんに聞こえないように小さな声で)


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sola

万葉集・古今集となると……高校の時の古典の先生の顔が浮かんで、気が重~くなるsolaでございます。「~猿にそっくりだぜ」という授業でしたら面白かったのにと(笑)
ということで、美味しいものにのみ反応しておりまする~。
七草がゆとお汁粉、「米・野菜・豆」ですものねぇ。まさに、中身からキレイで、大丈夫な体になれそうですね(笑)
幽玄しるこは……奥深い静かさの味わいでしょうか、ぜひ体験してみたく思います。
by sola (2006-01-08 00:02) 

nina_day

次の比較、こじつけの旅 何でしょう楽しみです
今日のお写真、ガラスのテーブルなのですか?
なんだかお椀が宙に浮いているようにも見えてて
この表面が何とも対象的ですね。
お粥さんもあんこ同様に つぶつぶの残ってる五分粥派と、
とろとろ系の全粥派があるように思うのですがいかがでしょう?
うちでは昔からお粥はだんぜん五分・七部粥派だったのですが、
中国の美味しいお粥さんを食べてから、全粥派となりました。
でもうっかりやりすぎると、これがまた糊になっちゃうんですよね…> <
by nina_day (2006-01-08 03:31) 

スティッチ親分

なるほど、よ~く分かりました。
でも、本当のsolaさんじゃないけど中学、高校の古典の授業を思い出しますが、全然中身はそうではなかった(笑)
万葉集の方が、日本の歴史上古いわけでまだ洗練されていなくて、つぶあんだった。
あなみにく賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る(大伴旅人)この訳を読んで内容はこう言う事だったのかと自分の無知さ加減に反省ザルです。
のちに出てきた古今集は確かに洗練されている。うむむ~。
そう言う事かぁ!ってうなずく私。確かに優美というか、繊細というかお洒落なイメージになってきてますね。
と言う事は、やはり最初はつぶあん文化がきて次にこしあん文化と変わっていったのですね。
新古今集が極上のつぶあんですか(笑)確かにそうなのかも。では、さらにこしあん文化が進んだってことですか??
確かに、ひらがなって優しさが伝わる感じがします。漢字だけだと私は今でも拒否反応を起こします(爆)
でもね。うむむ~~。こしあん文化は洗練もされたが手抜きもされてきた?って事も考えられません??
アネハしてきたとまでは言いませんが・・(爆笑)
こしあんは、つぶつぶの荒っぽさが嫌で口の中で皮が残るのが嫌いな方もいるようで。こしは、つぶを噛む必要がないですもんね(笑)
文化が進むと洗練され、こしあん文化になる。一方、万葉集が極上のつぶあんだったのですね。なるほど!分かりやすい!
しかし、今の日本は洗練されてるとは言いがたい。確かにお洒落になりましたよぉ~でもムチャクチャな日本になってしまったような気がします。今の日本の文化はどっちなんですか?
今は万葉集も古今集もなくなり、何があるんだ?俳句かなぁ?
私はバカだからよく分からないけど、やっと万葉集と古今集の違いが、ようやくこのブログで理解できました♪
つぶからこしに変わったいきさつもわかりました♪
あ~でも、久しぶりに授業を受けたって感じです~なんか頭がよくなった気分♪参考書見ただけで頭良くなったと感じた事ありませんか?
私だけかぁ・・・しょぼ~ん(笑)
by スティッチ親分 (2006-01-08 10:35) 

gillman

 うーん、考えちゃいますね。
 僕は平仮名ができてはじめて日本語が形を成したと思っているんで、古今の方かな。でも、金子さんの歌、いいなぁ。
僕の流れは、こしあん~ブリーフ~そば~ジーパン~古今だったんだけれど、最近はブリーフはきついし、そばよりうどんの方が温かいものは旨いし、ジーパンも冬は冷える、ということで天野さんの流れに近づきつつあるようです。
by gillman (2006-01-08 20:57) 

銀鏡反応

御晩で御座います。
字面が漢字だけの万葉集とひらがなの多い新古今和歌集、やっぱりつぶあんとこしあんとの違いのようなものなんですね。つぶは自然児みたいだし、こしは洗練されてて都会ッ子っぽい。同じように万葉集はおおらかだからつぶあん的で自然児派、新古今和歌集は洗練されてて綺麗なこしあん派。しかし、洗練がある地点まで行きつくと、次第に内面から腐ってゆく。まさに奢る平家は久しからず。で、またつぶあんの自然児派にもどってゆく。
私が思うに、今の時代はこしあんとつぶあんが並び立っているような状態って感じです。
金子きみさんの作品は年末でしたか、過日放映されたニュース23のCM AWERD特集で初めて聞きました。口語自由律の作品だけに、作者の気持ちというか感性がじかに伝わってココロが痺れます。それにこの歌ってやはり万葉的、つぶあん的ですよね。
by 銀鏡反応 (2006-01-08 21:26) 

あまの

「sola」さん。朝、鏡を見たら、自分の顔が古典の先生みたいになっていました。顔を洗って出直したいところですが、どうなることか。

「にーな」さん。写真はガラスのテーブルの上でとりました。あんこはこしあん派ですが、糊状の粥はいけません。

「スティッチ親分」さん。すいません。もっと勉強します。あ、違った、もう勉強はやめます。

「gillman」さん。こしあん派がジーパンはいてもいいんです。ただし、こしあん派なら、ジーパンをわざと破いたり、塗料で汚したりしたほうがいい。つまり、ジーパンの洗練化(こしあん化)ですね。

「銀鏡反応」さん。ご指摘のとおりですが、いまは6対4で、つぶあんが優勢じです。さて、これからどうなりますか。
by あまの (2006-01-10 20:00) 

tama

某食わず嫌い王で、中村獅童さんが山田屋まんじゅうと名水しるこを
お土産として紹介してました。

あまり食べる機会はないものの、山田屋まんじゅうの潔さ(まんじゅうだけ)が好きです。
by tama (2006-01-19 21:48) 

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