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見巧者の話 [あんこ学]

四国の松山で、竹本住大夫さんにお会いしてきました。住大夫さんといえば、人形浄瑠璃の第一人者で人間国宝の方ですが、ちっともえらぶったところのない、それどころか、大阪弁で気さくに話される、ぼくの大好きな人です。冗談まじりで話されることが、実は奥の深い芸談になっていたりして、しんそこ楽しい時間を過ごしました。ちなみに、この人間国宝はつぶあん派だったことを、ご報告しておきます。
なんて言いながら、ぼくは文楽の舞台を、まだ5回くらいしか見ていません。歌舞伎はかなり見ていますが、それでも「通」なんてとても言えない。だから、えらそうなことは言えないのですが、昔は
「見巧者」という言葉がありました。みごうしゃ。見るのが巧みな人。目の肥えた人。歌舞伎や文楽の観客のなかには、そんな見巧者がたくさんいて、「よっ、待ってました!」とか、「日本一!」とか、「引っ込め、大根!」とか、応援や批判のやじを飛ばして、舞台の質を支えていたんです。そう、舞台というのは、役者や芸人がつくるもんじゃない、観客がつくるんですね。
で、そういう見巧者というのは、見方がじつに細かい。芸のディテールにうるさい。たとえば、近松門左衛門の「曽根崎心中」を見るとしますね。いまの観客だったら、あんなことで死ななくていいんじゃないか、とか、二人を苦しめている封建的な社会制度にモンダイがあるんじゃないかとか、広い視点からものを言う。でも、当時はそういう視点は閉ざされていましたから、必然的に観客の目は、芸の細部へ細部へと、向けられていったんですね。で、「きょうの幕切れの藤十郎は、もうひとつ手のあげ方が低かった」なんてことを言う見巧者が生まれていったんだと思います。
つまり、目(と耳)だけが異常なくらい洗練された観客が多くなっていったわけで、そういう観客の要求にこたえるために、芸もまたどんどん洗練されていく。日本の伝統芸能の洗練度の高さは、そんなところから生まれてきたんじゃないでしょうか。
それはまた、芸能だけでなく、日本の伝統文化全体に言えることじゃないか、とぼくは思っています。あの、和菓子のネーミングやデザインの洗練ぶりを見てください。洋菓子にも、もちろんしゃれたのはたくさんありますが、とても和菓子の敵ではない。そして、究極としてのこしあんの洗練……と話をもっていきたいところですが、急いてはことを仕損じる、加藤周一さんのすばらしい文章をちょっとご紹介して、それから、松山でもらったへんな大福の話をして、それから、きょうは寝ることにしたいと思います。

「いまここの日常的世界は、私たちの感覚を通して与えられる。その世界を、それを超える何ものかと関連させることなしに一つの文化が成熟すれば、そこには感覚の無限の洗練が起こるだろう。たとえば、色の感覚は鋭くなり(平安朝日本語の色名の豊富さ)、嗅覚は冴え(香合せ)、耳は複雑な倍音を聞き分けるようになる(能の鼓)。そのような感覚の洗練の極致が集中して成立したものが利休の茶の湯であろう。その意味で、利休は決して孤立していたのではなく、一つの感覚的文化を要約していたのである。」(加藤周一「日本その心とかたち」より・徳間書店)

さて、と。松山からの帰りに、知人がおみやげをくれました。「霧の森大福」っていうの。四国中央市で作っていて、ネット通販のお菓子の第1位になったこともあって、大評判だからなかなか手に入りにくくて、という話題の大福だそうです。
で、あんころじすととしては、家に帰ってすぐ口に入れてみたのですが、中身がななななななななななななーんと、こしあんと生クリームの詰め合わせではありませんか。
正直言って、この味は、あんころ爺にはよくわからない。で、仕事場ヘ持って行きました。で、仕事場の若い女性5人に試食してもらったところ、
女性①後味がさっぱりしていて好き。
女性②おいしい。どうおいしいかって、ただおいしい。
女性③クリームが好きだから好き。
女性④上品ですね。
女性⑤もう一つ食べていいですか。
という反応でした。
ま、いまはこういうのがはやりなんでしょうか。おおむね、評判がよろしいようで。
よろしかったら、おひとつ、どうぞ。


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人前のキス。 [あんこ学]

きょう、、渋谷の人通りのなかで、抱き合ってキスをしている若い二人を見ました。あなたは、こういう光景を見たとき、みっともないと思いますか。
ぼくは思いました。えーっ!といわれても、そう感じるんだからしょうがない。
でも、なぜ、そう感じるのか。そこがモンダイです。
愛し合っている二人がキスすること自体は、自然なことです。けっこうなことです。どんどんやればいい。ただ、路上で、人目をはばからずにやるのは、ちょっと困る。
なぜ困るか。思うに、そんな「しぐさ」の文化が、日本にはないからです。
「しぐさ」も言葉の内です。たとえば、アメリカ人が、両腕をひろげ首をすくめて「オー、ノー!」って、よくやりますよね。あのしぐさは「オー、ノー!」という言葉とちゃんと対応しているわけで、ぼくら日本人が「とーんでもない!」といいながらあのしぐさをしてごらんなさい。ぜんぜんヘンチクリンというか、似合わないんじゃないでしょうか。
それと同じようなもので、街頭でキスをするという「しぐさ言葉」が、日本にはないんですね。ない言葉を使おうとするから、見ていてぎごちない感じがする。ぎごちないから、みっともなく見えてくる、ということじゃないかと思うんです。
もっとも、いまは日本語もどんどん変わっているから、路上のキスも自然なしぐさになってくるのかも知れない。でも、そう変わることがいいことかどうか。ま、これはいい悪いのモンダイではないのですが、ぼくには疑問です。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本の女性の礼儀作法の完成度の高さに、もはやそれは芸術の域に達していると、手放しで感動しています。「洗練の極致」とは、ああいうものを言うんだろうと、ずっとぼくも思ってきました。
ま、いまどきそんなものを懐かしがってもあとの祭りですが、あの洗練された「しぐさ」は、当時の日本語の洗練度と、ぴったり寄り添っているというか、表裏一体のものだと、ぼくは感じています。(これは、小津安二郎の「東京物語」を見ればよくわかります)
ところで、こうした日本文化に独特の感覚的洗練性は、和菓子の感覚的洗練性と深くつながっている。そして、あんこの問題もまた深くかかわってくる(かもしれない)と、思うんですね。で、そこへ突っ込む前に、みっともないというのも、100%感覚のモンダイなので、以下の例を「みっともない」と感じるかどうか、教えてくれるとうれしいです。
①路上のキス。(人通りの多い午後3時)
②歩き食い。(おにぎりとか肉まんとか)
③らっぱ飲み(水やコーラのびん)
④バイキングの山盛り(われながら取りすぎた!)
⑤道端のうんこずわり
⑥ごみの無分別(ひとに見られた!)
⑦全身一流ブランドづくめ(で宵の銀座を歩く)
*ほかに、みっともないと感じることがあったら、ぜひ。
明日から、3日ほど、四国の松山へ行きます。一六タルトと山田屋まんじゅう、食べてきます。


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あんぱん批評 [あんこ学]


どっちもあんぱんです。ふたつとも、コンビニで買ってきました。値段はどっちも105円。
商品名は、左がヤマザキの「高級つぶあん」、右は銀座木村屋の「あんぱん」です。
袋に印刷された広告コピーはこうです。
「餡と栗のおいしさを引き出すために、丹精込めて炊き上げた栗粒入りのつぶあんを丁寧に手包みしました。」(ヤマザキ)
「北海道の襟裳小豆使用。さらっとした口溶けが新しい。」(木村屋)
木村屋のほうは、さらに、こんなコピーもついています。
「日本ではじめてのあんぱん、酒種生地使用。生地を練りはじめてからこのパンが焼き上がるまで一日半。筑波山中での酵母の採取から数えれば十一日。創業以来の酒種生地は、いまも変わらず手間暇かけてつくっています。だからこその風味と香り。パンは生地がいのちです。」                 *
さて、木村さんと山崎くんの売り方は、どっちがうまいと思いますか。
店頭でぱっと見た目には、山崎くんのほうが目立ちます。デザイン的に強いというか、パンチがある。鮮明に印刷された小豆の写真が、このぱんがあんぱんでありつぶあんぱんであることを、ひと目でわからせるつくりになっている。ただ、「高級つぶあん」の「高級」がやですね。自分で高級って言う人に、あまり高級な人はいないんじゃないでしょうか。もっとも、「高級つぶあん」とは書いてあるけど、「高級つぶあんぱん」とは書いてないから、これはあんこだけの話なんでしょう。
それにくらべると、木村さんは、やはり明治生まれの人らしく、すべてにおとなしい。コンビニの棚でも山崎くんに押されてつぶれそうになっていました。図体の大きさが、かなり違うってこともありますね。
でも、銀座の本店で売っている桜あんぱんにくらべると、これはかなり大きい。3倍はある。山崎くんに対抗するために、量産用の大型を開発したんでしょう。
それにしても、木村さんは、袋に書かれているコピーが多すぎる。言いたいことがそれだけあるというのはいいことで、「高級」なんて言わずに品質のよさを具体的に説明しているのは立派ですが、これをコンビニでじっくり読む人はいないと思います。だから、説明によってでではなく、パッケージのセンスのよさで高級感を出し、山崎くんを「つぶめ!」と鼻先でせせら笑うような感じにしてほしかったとぼくは思うのですが、コンビニむけとなると、コスト的にむりなんでしょうかね。
でもね、一回食べてもらえば、その違いははっきりわかるんです。山崎くんより「いい」とか「おいしい」という意味じゃなく、木村さんの「こしあんぱん」が、ほかのどのあんぱんともはっきり違う個性を持ったあんぱんであることが、食べればだれにでもすぐわかるんです。その個性を、もっと目に見えるカタチで出さなくっちゃ。頼むぜ、木村さん、とぼくは思ってしまったんですね。
とまあ、あんぱんひとつ食べるに、なんだかんだとうるさいやつだ、と思われてもナンなんで、食べました、ふたつとも。
結果は、どっちもまあまあでしたが、山崎くんの「栗入りつぶあん」は、ちょっと誇大だよ。ちいさなカケラが3つ入ってただけだぜ。でもね、たしかにあんはおいしかった。ハングリーな若者には、とても親切なパンだと思う。
一方の木村さんは、量産用だけに、本店のほど上品ではないけれど、ちゃんと木村屋の味にはなっている。ただ、木村屋のあんぱんは、小さくて、ちょっと物足りないくらいがいいんであって、馬が食うわけじゃなし、あんな大きいのはどんなものか。そんな思いが残りましたね。
あ、そうそう、ハワイの木村屋には、どうしてつぶあんのあんぱんしかないのか、わけわからん。こしあんも置け、と、店に来ていた外人客が怒っていましたよ。ぼくも怒った。
                  *
というわけで、消費者のみなさんへのぼくの提言は、どっちでも好きなほう食え、ということになりますが、正岡子規さんへのお見舞いに持って行くのなら、やっぱり、木村さんのほうでしょうね。
木村さんの初代が日本ではじめての桜あんぱんをつくったのは、明治8年(1875年)で、そのおいしさと珍しさで東京中の大評判になったそうですが、その8年後の明治16年に、子規は大きな夢を抱いて四国の松山から東京に出てきている。好奇心旺盛な彼のことですから、木村さんちの桜あんぱんは、食べたにちがいありません。前に子規の「仰臥漫録」の中にある彼の絵をお見せしましたが、あの中に描かれているあんぱんは、やっぱりこしあんの桜あんぱんだと考えていいでしょうね。
それにしても、どうして初代の木村さんは、あんぱんのあんをつぶあんではなくこしあんにしたのか。今回はそれについてのぼくの考えを書くつもりだったのに、もう夜中になってしまった。あんこがちょっと胸につかえ気味なので、キャベジン飲んで寝る。またね。


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あんころ爺のひとりごと [あんこ学]

「ヤだね」と、母はよく言った。
「いい」か「わるい」かではなく、「イキ」か「ヤボ」かが、物事を評価する母のモノサシだった。かっこ悪いものやマナーの悪いものに出会うと、母はちょっと眉をひそめて「ヤだね」と言ったものだ。
母は明治生まれの江戸っ子だった。江戸と言っても足立区の千住だから、ちゃきちゃきとは言えない。が、気分はいつもちゃきちゃきで、ポンポンものを言い、シャンシャン行動した。
趣味は長唄だった。三味線はほどほどだが、唄がうまかった。母が子どものころは、下町の女の子のけいこ事と言えば、長唄がふつうだったらしい。幼いころから習った長唄を、18歳で酒屋のおかみさんになってからもうたいつづけ、後年、暇ができてからは、お師匠さんから名前をもらって、近所の人に教えるようになった。
子どものころ、母たちがうたう「勧進帳」とか「娘道成寺」とかを聞いて、その意味はほとんどわからなかったけれど、唄の向こうから、甘く、妖しく、美しい世界がゆらゆら立ちのぼってくるのを、ぼくはどきどきしながら感じていた。
「イキ」と「ヤボ」のモノサシで世間を見る母の美意識は、そんな長唄がかもし出す空気と当時の下町の気風のなかから、生まれ育ったものなのだろう。
母は、教育がましいことは何ひとつ言わなかったが、母の強烈なまでの美意識が、母のふだんの言葉やふるまいを通して、ぼくのなかにじわじわとしみこみ、いまのぼくの感じ方や考え方をつくっているのではないかと思う。
その母も、だいぶ前に世を去った。が、いまでも、自分の言ったことやしたことが、みっともなかったなと感じたときなど、母の口ぐせの言葉が、耳に聞こえてくるような気がする。
「ヤボはヤだね」

長い文章を読ませてごめんなさい。これ、ことしの5月20日の毎日新聞(大阪版)に書いたものです。ぼくの母のように、なんでも「みっともない」といった美意識に還元してしまうのは困りものですが、いまはこういう意識がうすっぺらになりすぎてしまったような気がする。それもまた困りものではないかと思います。
ぼくが子どものころ、ごはんを残したり、こぼしたりすると、母は「みっともない」と、ぼくを叱ったものですが、でも、父は違った。父は「もったいない」と言いました。「みっともない」と「もったいない」。このふたつの言葉は、別に反対語ではありませんが、このふたつの言葉のズレというか、スキマの向こうには、どうもいろいろなものがひそんでいるような気がします。あなたはそんなとき、なんと言って叱られましたか。
あまり長くなるから、つづきは次回にしますが、ちなみに、ぼくの母はこしあん派、父はつぶあん派でした。


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たったひとつの正解はない。 [あんこ学]

昔、ヴィヴァルディの「四季」が、やたらに売れた時期がありました。クラシックレコードの売り上げベストテンのトップを、長い間占めつづけていた。なぜ、「四季」がそんなに売れるのか。当時、そのワケを、ぼくの好きな作曲家の林光さんが、こんなふうに言っていたのをおぼえています。
「音楽の聴き方に、たったひとつの正解はない。でもね、ベートーヴェンの音楽なんかだと、まるでたったひとつの正解があるように言う人がいる。この曲は、苦悩を通しての歓喜を表現してるとかね。解釈がうるさい。その点、ヴィヴァルディは、というより、バロック音楽は、どう聴こうと自由なわけね。勝手なわけ。それが、たったひとつの正解を押し付けられることにうんざりしている現代人に素直にアピールしたんじゃないだろうか」
林さんはすごい名文家だから、こんな言い方で言ったわけじゃないけれど、ま、意味は、ざっとこんなことだったと思います。で、この林さんの言葉は、当時のぼくに電撃的にひびきました。そう、ビリビリッときたわけ。そうだ、音楽に限らない、世の中のことすべて、たったひとつの正解なんかないんだ。正解は、そのモンダイを考える人の数だけあるんだ。そうだそうだ、モンクあっか、なんて思ったわけです。
いや、そんなことはない、数学のモンダイなんかは、正解がひとつじゃなきゃ困るだろう、と思うかも知れない。だが、違う。
昔、セブンイレブンのCMに、「駅からまっすぐ帰ると200メートル、セブンイレブンに寄って帰ると300メートル、でも、私はどうしても寄り道してしまう」というのがあって、その画面に家と駅とセブンイレブンを結ぶ直角三角形の図がかかれていたのがありました。ま、なんてことはないCMだとぼくは思っていたんですが、世の中にはうれしい閑人がいっぱいいて、「あれはおかしい」という疑問の手紙が、「CM天気図」に殺到したんですね。「直角三角形の斜辺が200メートルで、他の2辺の和が300メートルなんてことは、数学的常識としてありえない」というわけです。ところが、「これはもうピタゴラスさんに聞くしかないだろう」とぼくが「CM天気図」に書いたら、さっそくピタゴラスさん、じゃない、数学専攻の大学院生で岩瀬順一さんという人から手紙がきた。それによると、「あの三角形は平面上では成立しないが、計算の結果、半径191メートルの球状をした小惑星を想定し、その北緯45度東経0度に駅が、北緯45度東経90度に家が、そして北極点にセブンイレブンがあれば成立する」というんですね。つまり、間違ってはいない、というわけです。
おいおいおい、そんなちいさな星の上に電車が通るかよとか、そんなところにセブンイレブンが出店すると思うか、なんて言う人に災いあれ。ぼくが感動したのは、あの小うるさい数学でさえ、正解はひとつではない、考え方によっていろいろあるんだというのを知ったことでした。
というわけで、以来ぼくは、何事にせよ、たったひとつの正解なんてものはない、と信じてきました。だから、アンパンマンはつぶあんかこしあんか、というモンダイにも、実は正解はひとつではない、ということになるんですね。どうしてもつぶあんであってほしいと思うひとはつぶあん、こしあんじゃなきゃわたしゃいやだというひとにはこしあんなのです。東雲のミニーさん、これでいいですか。よかないよね。
さて、次回はいよいよ、「みっともない」と「あんこ」になんの関係がアンだという疑問点に踏み込いくつもりですが、はたして、どんな関係がアンでしょうか。一緒に考えてください。


これは、渋皮つき栗納豆です。でっかいです。つくったのは足立区の丸和製菓です。足立区はぼくの生まれた所です。この渋皮つき栗納豆みたいな所です。隅田川のほとりにあるので、区役所の人は「いまやこのあたりもウオーターフロントです」なんていってますが、実態は「川っぺり」です。
ウオーターフロントなんてばかな言葉より、ぼくは川っぺりのほうが豊かな感じがして好きです。


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みっともなくない? [あんこ学]

通りに面したところが総ガラス張りになっている美容室の中で、美容師さんに髪をいじられている自分の姿を通行人に見られても恥ずかしくないですか。
百貨店の1階の化粧品売り場で、化粧部員の人にメイクをされている自分の姿を、店内のお客に見られてもいやだとは思いませんか。
といったようなことを朝日新聞の「CM天気図」に書いたら、あちこちから異論反論オブジェクションをもらった。
「あんたは古い」「そんなのぜんぜん気にしない」「どうして恥ずかしいんですか」「ばかか、お前は」といったぐあいです。
でもなあ、そうかなあ、と、ぼくとしては釈然としない。じゃあ、電車の中で化粧している人も許されるってことかなあ。そうかなあ。
で、その原稿では、いまの日本からは、「もったいない」という言葉だけじゃない、「みっともない」という言葉も消えてしまったんじゃないか、と書いたのですが、あなたはこのモンダイをどう思うか。ぜひ意見を聞かせてほしいのです。
それとあんこと、いったいなんの関係があるのだ、とぼくも思うのだが、実はあるんだな、これが。と思うんだな、ぼくは。
ま、その関係は次回までに考えておくとして、きょうは仕事場にお客さんが何人かきて、お菓子をたくさんいただいた。写真でおすそわけをすると、京都の鶴屋吉信の和菓子、東京新宿の追分だんご、それと、ウエストのシュークリームである。(あ、そうそう、この「~である」と終わる言文一致の文体は尾崎紅葉の発明らしい。ちなみに、「~だ」で終わる「だ体」は二葉亭四迷、「~です」の「です体」は山田美妙が家元だそうです。家元だそうだ。いや、家元だそうである。
さて、お菓子のほうはどれもおいしいが、ウエストのシュークリームの大きさ(直径8センチ)とクリームの量の多さには、いつものことながら身ぶるいするような感動をおぼえる。このくらい、あんこがびっしり入ったあんぱんを、食べてみたいものだ。ものです。いや、ものである。もちろん、こしあんで。


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紅葉はつぶあんだった。 [あんこ学]


もみじまんじゅうはこしあんだが、紅葉のまんじゅうはつぶあんだった。
11月20日にもらった「ひゃくみ」さんのコメントが、ずっと頭にこびりついている。
あの尾崎紅葉が、自分が死んだら「京橋銀座菊の家に注文して米饅頭に紅葉の印を押したのを使うといい。ただし、あんはつぶあんで、折などは気取らないこと」と、言い残したというのだ。
で、「ひゃくみ」さんは、だから紅葉はつぶあん派だったという。なるほど、とも思うし、わざわざこしあんのようないいものをふるまわなくてもいい、といっているところを見ると、本人はこしあん派だったんんじゃないか、という気もする。
が、あれこれ考えた末に、これは「ひゃくみ」さんのいうとおり、紅葉はつぶあん派だったと思うようになった。
なぜか。
①紅葉といえば、やはり「金色夜叉」である。あの小説は、どう考えても男本位で、お宮さんの切ない女心がうまく描けているとは思えない。それに、紅葉は写真でみてもかなりブリーフっぽいひとで、つまりはつぶあん派に違いない。それにしても、貫一お宮の物語も、熱海名所のお宮の松も、いまは知らない人のほうが多くなった。
②紅葉は小説だけでなく、俳句も多く残している。
「鍋焼の火をとろくして語るかな」
「モルヒネも利かで悲しき秋の夜や」
この人の句は、子規の写生句とは対照的に、熱い思いを吐露する感じのものが目だつ。子規の句がクールな句だとすれば、紅葉の句はホットだ。熱血浪漫派の俳句である。ちなみにこの二人は、同じ慶応3年に生まれ、同じように日本の近代文学の黎明期を切り開き、ともに30台なかばで夭折したという点で似通った二人だが、俳句の面ではまったく相容れない仲だったらしい。
この二人の俳句を見るかぎり、紅葉はつぶあん、子規はこしあんで、お互いに認め合わなかったのは当然だろう。
③というわけで、紅葉はつぶあんに違いないと、ぼくは思うのだが、ついでに言ってしまえば、紅葉は俳句より短歌の人だったんじゃないかという気がする。理由はまたゆっくりこじつけを考えてから書くことにするが、俳句の諧謔趣味はこしあんに通じ、短歌の浪漫趣味はつぶあんに似合うんじゃないかと思うのだ。
それにしても、「ひゃくみ」さん、面白い話をありがとう。
写真は、とらや椿山のおはぎ。もうすぐ北の窓。


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ちょっと通行どめ [あんこ学]


シンポシオンに参加してくれている閑人も、通りすがりの方も、ちょっとご協力を。(①か②のひとつだけでもけっこうです)
①アンパンマンのあんこは、こしあんか、つぶあんか。
 (「あんこと皮」さんがくれた情報によると、作者のやなせたかしさんがつぶあんだと言っていたらしいのですが、作者の意見にとらわれず、読者としてはどう思うか、を知りたいのです。「こし」とか「つぶ」だけでも、いそがしい人は「こ」とか「つ」だけでもいいから、教えてほしい。(ちなみに、現在は、アンパンマン=こしあん説は「こつぶちゃん」と「東雲のミッキー」の二人。アンパンマン=つぶあん説をとっているのは、「tami」さん、「あんこと皮」さん、「小豆姫」さん、「東雲のミニー」さんなど、数の上では圧倒しています)
②老舗のまんじゅうはこしあんが多いのですが、下記のまんじゅう以外に、ご郷里の名作や、個人的に「これぞまんじゅう」というのを知っていたら教えてほしい。で、それはつぶあんかこしあんかも。老舗に限りませんが、長く続いているのは、やはりうまいからだと思いますし、調べもつきやすいので、以下順不同で書いておきます。間違いがあったら、教えてね。
                     *
赤福 創業宝永4年・伊勢市 (こしあん)
柏屋の薄皮まんじゅう 創業嘉永5年・郡山市 (いろいろ)
山田屋まんじゅう 創業慶応3年・愛媛県 (こしあん)
大手まんぢゅう 創業天保8年・岡山市 (こしあん)
竹屋饅頭 文久年間・広島県庄原市 (こしあん)
大原松露饅頭 嘉永3年・唐津市 (こしあん)
竹林堂分家の酒まんじゅう 寛政2年・富山市 (こしあん)
根岸・花月堂の豆大福 創業明治4年・台東区 (こしあん)
もみじまんじゅう 広島・宮島 (いろいろ) 
壷屋のじょうよ饅頭 文京区本郷 (こしあん)
芳香堂の朴葉巻 長野県木曽郡 (こしあん)
塩味饅頭「播磨屋利休」 (こしあん)
仲屋の利休饅頭 浜田市 (?)
藤屋窓月堂の利休饅頭 伊勢市 (こしあん)

ということで、どうぞよろしく。あ、そうそう、東大には「東京大学饅頭」っていうのがあるんだって。
何あんかな。いもあんかな。くずあんかな。エイリあんかな。ユートピあんかな。レスビあんかな。エピキュリあんかな。学習指導あんかな。内閣不信任あんかな。(ばか、いいかげんにしなさい)


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気分を食べるひとたち [あんこ学]


つぶあん派の「ひなぐま」さんが、あんだんごでこしあんのよさがわかったというのはうれしい。あんだんごに感謝しよう。
「Shunjin」さんは、「こしあん」と「つぶあん」の間に「つぶしあん」があるんじゃないかという意見を寄せてくれたが、そもそも「つぶあん」なんてものはなくて、ぼくらが「つぶあん」といっているのは、本当は「つぶしあん」というのが正しい名前らしいよ。そりゃそうだよね、つぶしてなければ「あんこ」ではなくて「ゆであずき」だもんね。でもなあ、いまさら「つぶしあん」というのもシャクだしなあ、コンビニのあんぱんにも「粒あん」なんてわざわざ印刷してあるしなあ、ええい、ここはもうつぶあんでいくぞ! とひそかに決意するきょうの私でした。
ところで、どうしてひとつの物に、春は「ぼたもち」、夏は「夜船」、秋は「おはぎ」、冬は「北窓」と、わざわざ四つの名前をつけたのかというもんだいだが、おっと、また思い出したから忘れないうちにいっておくと、しばらく前にテレビ・ジャーナリストの人たちのシンポジューム(シンポシオンではない)があって、そのときぼくが聞いたところでは、筑紫さんと鳥越さんは、どちらもつぶあんだった。で、あっちのほうは、ふたりともトではなくてブだったように記憶しているが、それはともかく、つぶあんが好きな人は髪の毛が多い、ということがそのときわかったのだ、ぼくには。これは、もしかしたら、かなり偉大な発見ではあるまいか。
というわけで、春の「ぼたもち」はぼたんの季節、秋の「おはぎ」は萩の季節ということで一応わかるけれど、夏の「夜船」と冬の「北窓」というのはなんじゃらほい、と思う人が多いに違いないと思う。なにを隠そう、そういうぼくもちょっと前まで知らなかったのだが、ものの本によると、こういうことなんだそうな。
春と秋の彼岸には昔はお餅をついたものだが、夏と冬はあまりお餅はつかない。で、隣り近所にめいわくにならないように、トントンつくのではなく、静かにこねてお餅を作ったらしい。で、いつお餅をついたんだかわからない。いつ着いたんだかわからない。夜の船はいつ着いたんだかわからない、ということであるらしい。
北の窓も同じだ。北の窓からは月が見えない。つきが見えない。餅つきが見えない、ってわけ。こんなことを考え出すなんて、ほんと、昔は閑人が多かったんだなあと思う。
あ、それでまた思い出した。ぼくがこしあんの次に好きなのは小林一茶だが、ぼくの大好きな彼の句を教えちゃう。
  閑人や蚊が出た出たと触れ歩く
ああ、いいなあ、ぼくもこういう閑人になりたいなあ。一茶もこしあんだろうなあ。
だが、四つの名前の由来よりも重要なのは、なんのためにひとつの物に四つも名前をつけたかということだ。それはたぶん、ぼくらはものを食べるときに、物だけをたべているのではなく、物と一緒に気分をたべている、ということだろうと思う。まったく同じ物でも、「ぼたもち」を食べるのと「夜船」をたべるのでは気分が違う。その気分の違いを、ぼくらのご先祖さんは愉しんでいたんじゃないかと思うんだよね。
「おい。この北の窓を、横丁のご隠居さんのとこに持ってってやんなよ」なんていっちゃってさ。
「裏の後家さんは夜船が好きだねえ」なんて、こんちきしょう。
ビールの「一番搾り」が発売当初よく売れたのも、「一番搾り」っていう名前の力が大きかったんじゃないかな。ああ、おれいま一番搾り飲んでるんだ、っていう気分ね。中身はまったくおんなじでも、あれがもし「三番搾り」って名前だったら、ああは売れなかったと思う。
上の写真は、きょうの到来物、銀座あけぼのの栗むし羊かんでした。
それにしてもなあ、アンパンマンはこしあんかなあ。


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ちいさな違いを楽しむ [あんこ学]

これまでのシンポシオンで、人間の嗜好には次の2タイプのあることが明らかになった。
①つぶあん~ブリーフ~そば~ジーパン~野性
②こしあん~トランクス~うどん~スカート~洗練
おいおい、そんなこと、いつ明らかになったんだ、などど首をかしげてはいけない。これはあくまでも仮説だから、めくじらをたててはいけないのだ。
で、さらに仮説を前進させると、嗜好は指向に通じ、思考に至る。ブリーフをはいているときとトランクスをはいているときとでは、考え方そのものが変わってくるのである。
「tami」さんが言う通り、こしあんは作るのに手間がかかる。同様に、こしあん派の人間も、仲良くなるのに手間がかかる。つぶあん派の人間のように、あっさりしていない。ねっとりしている。それもこれも、実はこしあんのせいなのだ。
が、こしあん派に言わせれば、つぶあん派は屈折がなくてつまらないということになる。「みよしの大好きっ子」さんが教えてくれた松山市にある「みよしの」は、あんころじすとのぼくも好きな店だが、あの店のおばあさんは、実は若い美人だったころからぼくは知っているのだが、口では決していわないけれど、中身はかなりのこしあんだろうと、ぼくはにらんでいる。
ところで、今回は、二つの新しい難題にぶつかった。
その1は「あんこと皮」さんからのモンダイ。あんなにおいしいあんこなのに、なぜあんこだけでは食べずに、何かにくるんで食べるのか。うん。これはおおきいモンダイだ。たぶん、あんこだけだと、だれかがちょっとつまみ食いをしても、あとをちょこちょこっとなでておけばごまかせるからではないかと思うが、どんなものだろう。もしかしたらこれは、主役と脇役という重大な文化的問題に発展するかも知れない。ああ。こんな話をしていたら、急に舟和の「あんこ玉」と「くずざくら」がたべたくなってしまったぞ。
その2は、「東雲のミッキー」さんからのモンダイ。アンパンマンはつぶあんかこしあんか。奥さんがどうしても知りたいという。ふしぎな奥さんだ。ま、やなせたかしさんに聞けばすぐわかることだが、そんな安易な解決策をとらずに、うんうん考えてみたいと思う。
というわけで、今回は、まったく同じものなのに、春はぼたもち、夏は夜船、秋はおはぎ、冬は北窓と、四つの名前をつけてその違いを楽しんできたご先祖さんの美意識について考えたいとおもったのだが、年寄りはすぐ疲れるので、またにする。ああ、くずざくら、たべたい。


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