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ちょっと途中下車 [あんこ学]

四国の松山で、甘酒アイスというのを食べてきました。知ってますか、甘酒アイス? とっても珍しいというか、新奇な、それでいて懐かしいような、不思議な味です。

だいたい、ぼくは、新しがりやです。珍しがりやです。新奇なものには目がない。なんでも受け入れちゃう。自分でも困ったもんだと思っていますが、思えば親父もおふくろもそうだったような気がする。町内の人たちも、そうだったように思う。つまりですね、日本人って、多かれ少なかれ、そういうところがあるんじゃないでしょうか。

げんにぼくは、牛肉でも、スパゲッティでも、インドカレーでも、餃子でも、ツバメの巣でも、アンディーブでも、ブルーチーズでも、ピクルスでも、シュークリームでも、モンブランでも、ティラミスでも、なんでも食べる。おいしいおいしいと、ニコニコしながら食べる。いま例に挙げたものは、200年前の日本人は、まったくといっていいくらい、口にしなかったものですね。ま、当時の日本には、そんなものがなかったからだと言えばそれまでですが、あっても口にしたら、当時の人は「オエッ!」と吐きだしたんじゃないかと思います。

それに比べるとですね、欧米人は、日本の食べ物をそんな簡単にはには受け入れない。ま、いまや寿司はあちらでも人気があるし、はじめは「オエッ!」だった納豆なんかも、少しは受け入れられるようになってきた。でも、なかなかなじめないというか、受け入れられないものが、まだまだ多いんですよね。
たとえば、あんこ。どうもキモチ悪いらしい。日本では、これほどみんなに愛されているのに、です。
そこから、日本的なるものはあんこ的なるものであり、あんこの中にこそ日本文化の本質が隠れていると、ぼくは勝手に思っているのですが、その話は次回に譲って、今回はどうしても甘酒アイスについて言っておきたい。

これって、外国人はぜったいダメだと思う。あんこはまだ我慢できても、これは99%「オエッ!」だと思います。で、10年たっても相変わらずダメだと思います。松山へ行く機会があったら、ぜひ食べてみてください。最初は例外なく「オエッ!」です。が、5個目くらいになると、やっぱり「オエッ!」の人と、「うまっ!」と前のめりになる人とに、はっきり分かれる。そこで分かれる人種的な違いは、こしあんとつぶあんの違いにつうじるものがあるなアと、ぼくはいま、ひそかに思っているところです。

さて、きょうのおもてなしは、伊予は久万(くま)という山間の町で作られている「おこう万寿」です。ひなびたおいしさとは、こういうものを言うんでしょうね。良質のこしあんを包んだ薄皮からは、ほんのり、甘酒の香りが伝わってくる。そう、やっぱり甘酒ですよ、これが。


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あんこは死なない [あんこ学]

前回の最後に「あんぱんの登場」に触れました。大津波から逃れるために、西洋伝来のパンのなかに、あんこはこっそり身を隠したんですね。そうやって、生き延びたんですね。そのくらい、あんこはしぶといのです。
で、きょうはそのしぶとさについて考えたいと思うのですが、前回、ご紹介した近江八幡「たねや」の最中を見たgilmannさんから、「たねやの栗饅頭が食べたい」というお声がかかりました。で、さっそくそれを取り寄せました(というのは嘘で前回の最中と一緒にいただいていた)ので、ま、ひとくち召し上がりながら、きょうの話を聞いてください。それにしても、この栗饅頭は、まじめで、上品で、とてもおいしい。え?お茶?自分で入れなさい。

さて、あんこはしぶとい。原料の小豆は、かなり昔に中国から朝鮮を経てわたってきたらしいのですが、中国や朝鮮よりも、日本列島に住む人達に小豆はこよなく愛されてきました。いま、世界の小豆のほとんどは、日本で消費されている。中国と韓国でも少し使われていますが、それ以外の国ではまったくといっていいほど、使われていないそうです。。
どうやってそんなに小豆を食べているか。そう、小豆のほとんどを、あんこにして食べているんです。「小豆=餡」なんですね。
前にもいいましたが、「餡」というのは、食べ物の穴とかスキマとかに詰める具のことです。肉でも野菜でも、中に詰めるのは、なんでも餡。脳みそも、ま、餡の一種かも知れません。ですから、肉や野菜を使った餡は外国にもいろいろありますが、餡に小豆を使うのは日本の専売特許みたいになっている。ここが、とても面白いところなんですね。
もちろん、はじめから小豆は餡になっていたわけではありません。小豆はその赤い色から、古くから縁起物として使われてきました。お赤飯とか小豆粥はその代表選手です。慶事だけじゃありません、弔事にも使われたし、魔除けや厄払いにも使われてきた。つまり、この国の人びとの暮らしの中に、広く、深く根づいてきたんですね。だから、この国に何度も大津波が押し寄せ、国じゅうが仏教文化や西洋文化でびしょびしょになってしまっても、小豆(小豆文化)はしぶとく生き残ってきたのです。

小豆を餡にするのが、いつごろから始まったのか、正確な記録はないようです。が、中国から禅僧が羊羹や饅頭をこの国に持ちこんだあたりから、羊羹の材料や饅頭の餡に使われていた肉や野菜に代わるものとして、小豆がクローズアップされてきたんじゃないでしょうか。それが、「おっ、いいね、これ。イケるじゃん」ってことになって、以来、餡といえば小豆と、この国では相場がきまったんじゃないかと思います。
そんな日本式饅頭の第1号は、塩瀬の饅頭だといわれています。1349年に中国から日本にやってきて奈良に住んだ林浄因という人が作ったんだそうで、塩瀬饅頭のしおりによると、この饅頭は「発酵した皮の香り、フワフワした歯ごたえ、ほのかな甘味の小豆餡と、そのどれもが当時の日本人にとって画期的なもので、大評判になりました」ということです。ついでに、そのしおりによると、林さんがこの饅頭をときの後村上天皇(1328~1368)に献上したところ、天皇はたいへんよろこんで、「宮女を賜った」というんだから、びっくりですね。そんなもの賜ってどうすんのかと思いますが、どうすんでしょうね。

で、このあんこは、「南蛮津波」や「文明開化津波」の来襲で、西洋文化がどっと押し寄せてきても、しぶとく生き残ってきた。カステラやらバターやらチーズやらクリームやらチョコレートやら、お菓子の素材の大洪水に見舞われても、我慢強く生きながらえてきた。いったい、あんこのどこに、そんな力があるのか。あんこのなかに、もしかしたら何かが、あるいは誰かが、ひそんでいるのか。そのへんのモンダイはまたのことにして、今回の「おめめのごちそう」は、あの塩瀬饅頭です。おいしいというか、奥ゆかしい味ですよ。


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津波はつづく  [あんこ学]

このあんこ列島を、第2の大津波が襲います。15世紀末から16世紀にかけてやってきたその津波は、第1の「仏教津波」に対して、「切支丹津波」とも「南蛮津波」とも言われています。(だれも言ってないよ)。第1の津波を「ナンマイダー津波」、第2の津波を「アーメン津波」と名づけている記録もあるようです。(ありませんって)
1569年に、織田信長はポルトガルから来た宣教師のルイス・フロイスに会っていますが、そのフロイスの「日本覚書」が、ぼくらのご先祖さんの姿を記録していて、とても面白い。あんこに関係はありませんが、ちょっとご紹介しておきましょう。

*ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔が犯されないことであるが、日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚する資格も失いはしない。
*ヨーロッパでは、夫が前方を,妻が後方を歩むが、日本では妻が前方を、夫が後方を歩む。
*ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有であるが、日本では各々が自分の分け前を所有しており、時には妻が夫に高利で貸し付ける。
*ヨーロッパでは男たちのほうが妻を離別するが、日本ではしばしば妻たちが夫を離別する。
*ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しないが、日本の女性は夫に知らさず、自由に行きたいところに行く。
*ヨーロッパ人は、乳製品、チーズ、バター、骨の髄などをよろこぶが、日本人はこれらすべてを嫌悪する。彼らには悪臭がひどいのである。         (「フロイスの日本覚書」中公新書より)

この時期のヨーロッパは、いわゆる「大航海時代」ですね。スペイン人やポルトガル人は、キリスト教の布教や貿易の拡大をねらって、日本にもやってきた。で、キリストさんの教えといっしょに、銃やらワインやらガラス製品やらカステラやら金平糖やら、いろんな文化を持ちこみましたま、最終的には、切支丹は禁制になり、日本は鎖国してしまうわけですが、この南蛮津波が日本のお菓子に与えた影響はたいへん大きく、以後、江戸時代に向かって、茶の湯の発展とともに、和菓子の世界も大きく変わっていきます。

トリノにせかされて先を急ぐと、やがてこの国に、第3、第4の大津波がやってくる。第3の津波は、幕末から明治維新にかけての「文明開化津波」、そして第4の津波は1945年の敗戦によって太平洋から押し寄せてきた「メリケン津波」です。
「文明開化」津波では、16世紀に中途半端に入りかけていた「ヨーロッパ」がどっと入ってくる。前はポルトガルやスペインでしたが、今回はドイツやフランスが主役です。7世紀に唐の制度を全面的にとり入れた日本は、こんどはドイツやフランスから近代国家に生まれ変わるためのさまざまな制度をとり入れたんですね。
と同時に、ヨーロッパの文物や、日本人が見たことのないようなものが、続々現れてくる。ざっと、以下の調子です。

*明治元年(1868)/ラムネ、ビール、牛肉屋、西洋洗濯店、ホテル
*明治2年/洋風理髪店、西洋料理店、乗合馬車、新聞、電信、パン屋、洋服屋、牛なべ屋
*明治3年/人力車、靴屋、牛乳屋、鉛筆、自転車、郵便
*明治4年/ミシン、リキュール、ネル、博覧会
*明治5年/鉄道、ガス燈、練乳、ハム、麦わら帽子
*明治6年/太陽暦、石鹸工場、水道、アイスクリーム
*明治7年/野球、紙巻タバコ、マッチ、セメント
*明治8年/コーヒー、目薬、幻燈、下水道、郵便貯金、あんぱん

とまあ、こんなぐあいに、見たこともない文物が押し寄せてくるわけで。、たいへんなことですよね、これは。
でもね、こういう大津波を、ぼくらのご先祖さんは、へらへらしながら、受け止めたんですね。受け止めただけじゃない、受け入れたんです。
その吸収力というか、消化力というか、これはもうオドロキというほかはない。そして、60年前の第4の津波、アメリカニズムの大波に対しても、それはまったく同じことでした。大和なでしこが、あれよあれよというまに、コーラのラッパのみをするようになったんですから。
これを、イギリスの有名な日本史家は、こう言っているそうです。
「いかなる国民も、新しい文化をこれほど早く、しかも、よろこんで受け入れる国民はなかった」
しかし、ですよ。しかしこの人は、つづけてこうも言っているんです。
「けれども、他方、これほど頑強に伝統を固持した国民も歴史上なかった」

さて、いよいよあんこの出番ですが、トリノが大声で呼んでいます。つづきは次回ということにしますが、明治初期にこの国にお目見えした新しいものの最後に、なにがあったか。もう一度、見てください。そう、あんぱん。
といったところで、きょうもおもてなしは到来品。彦根は「たねや」の最中です。あんが、半分は小豆のつぶあん、半分は白えんどうを使ったこしあん。こしあん派とつぶあん派がふたつに割ってたべると、万事うまくいく、という最中かどうかはわかりません。


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津波列島の特産品 [あんこ学]

日本国が生まれた7世紀から現在までの間に、この国は何回くらい大津波に襲われたと思いますか? 4回です。それも中途半端な津波じゃない、去年のインド洋の巨大津波に匹敵するくらいのどでかい津波です。
1回目は、7世紀はじめの「仏教津波」です。そう、中国(唐)から日本海を経て押し寄せてきたこの大津波で、日本中がびしょびしょになる。この大津波がもたらしたのは、狭い意味の仏教だけではありません。仏教大国・唐の政治の制度やら、町づくりの方法やら、お寺の建築法やら、ありとあらゆるものがどっと流れこんでくる。文学は漢詩、服装は中国風。おいおいここは中国かい、と見まちがうくらい、中国一辺倒の風景が出現したわけです。
それだけではありません。食べ物やら飲み物やらと一緒に、「唐菓子」と呼ばれるお菓子も流れ込んでくるんですね。唐菓子というのは、米の粉や小麦粉などを練ってさまざまなかたちにし、それを油で揚げてから葛などで甘みをつけたものだといわれています。
ま、この大津波で、その後の日本はどんどん仏教色に染まっていくわけですが、実はこれは仏教津波の第一波で、12世紀はじめの鎌倉時代に、その第二波がやってくる。前にも言いましたが、この鎌倉時代というのは、西日本から東日本へ政権の中枢がはじめて移るという大きな変革期ですね。変革期にふさわしく、この時代には新興宗教がいっぱい出てくる。法然の「浄土宗」とか、親鸞の「浄土真宗」とか、一遍の「時宗」とか、日蓮の「法華宗」(日蓮宗)とか、これってみんな、当時の新興宗教です。
禅宗もまた、この時代に栄西や道元といった人たちの力で、世の中に大きな影響力を持つようになります。食文化の面でも、禅のお坊さんたちは、中国(宋)からお茶と点心をもたらしたんですね。
点心(てんじん)というのは、いまと同じで軽食といったような意味ですが、中国からやってきた点心物のなかには、饂飩(うんどん)とか饅頭とか羊羹とか索麺といったものが含まれている。で、このあたりから、お菓子の世界がぐんとひろがりを見せてくるようになるんです。
この時期の羊羹の話は、前にしましたよね。だから、もうしません。で、仏教津波につづく第二の大津波の話に移りたいと思います、が、あ、いけねえ、トリノでスピードスケートがはじまる。ですから、話はまたにします。で、急いできょうのおもてなし。到来品の手作り最中「栗あそび」です。お茶は自分でどうぞ。


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揺れ動くジーパン [あんこ学]

渋谷のリーバイスの店へ行ってみました。カタチも色もとりどりのジーパンが、楽しげに並んでいました。が、破れたダメージ・ジーンズはありませんでした。前回、リーバイスでも売っていると書いたのは、ぼくの早とちりだったようです。リーバイ・ストラウスさん、ごめんなさい。
で、思ったのですが、gilmanさんやtengさんがコメントで言っているように、ジーパンのファッション化(こしあん化)は、ストーンウオッシュやブリーチでわざとクタビレ感を出したり、ジーパンに刺繍をしたり飾りをつけたりしてオアソビ感を演出したり、と、そんなところで、行き止まりになっているのかもしれない。で、ダメージ・ジーンズは、そういうジーパンのファッション化に対する批評的(抵抗的)表現として出てきたのかもしれません。「おれたちはもともとつぶあんなんだ、その本分を忘れてチャラチャラするな!」というわけですね。
そうかもしれない、とぼくも思います。それで思い出したのですが、昔の旧制高校の生徒の間には、「弊衣破帽」(へいいはぼう)というバンカラ風俗が行き渡っていました。バンカラの「バン」は野蛮の「蛮」で、「ハイカラ」をもじったネーミングですね。わざと汚したぼろの服に、わざと破った帽子をかぶり、「われらは、世間の流行風俗など目もくれない高等な人間だ」といった顔で、マチを闊歩していたものです。(ぼくも旧制の松山中学で、同じようなカッコをして調子にのっていましたっけ)。いまのダメージ・ジーンズに、そこまで反社会的な自覚なり意識なりがあるようには思えませんが、ま、少しは共通するところがあるかもしれません。
それはともかく、実用性や合理性をベースに、世の中のこわばった常識を変革しようという意気込みで登場したジーパンが、普及していくにつれて、はじめの変革精神や批評性をうしなっていく。で、どんどんおしゃれ化というか、洗練化の道を歩き始めたということだけは、たしかに言えるのではないかと思います。

ところで、これは、ジーパンに限ったことではありません。世の中のあれこれは、だいたい、「変革⇔洗練」という2極の間の往復運動を繰り返しながらしながら動いていく。で、その場合の「変革」の象徴がつぶあん、「洗練」の象徴がこしあんだと、ぼくは思っているんですね。だから、ジーパンが流行する時代には、あんこでもつぶあん派がふえる。で、男の下着も、トランクス派よりブリーフ派がふえるということになります。
おいおい、ブリーフ派がふえるって本当か、と思う人がいるかもしれませんが、そうなのです。ただしこれは、昔ながらのブリーフじゃない、「ボクサーパンツ」という新顔のブリーフです。男の下着の戦後史を大ざっぱに見ると、
①1950年代 アメリカニズムの波に乗って、ブリーフが台頭。
②1960年代 ブリーフの普及・定着
③1970年代 ブリーフのファッション化
④1980年代 トランクスの台頭と普及
⑤1990年代 ボクサーブリーフの台頭
といった感じで進んできて、最近では、ブリーフ(ボクサーブリーフ・ビキニブリーフ・スタンダードブリーフの合計)がトランクスと激しく競り合うところまで盛り返してきています。(某大学の女子学生・樫山静香さんの調査による)。ホラ、ジーパンと、ちゃんと話が合ってるでしょ。だいたい、ジーパンの下にトランクスをはくと、ジーパンの中がもたもたして困るってこともありますけどね。

さて、と話はあちこちに飛びますが、上方と東京の間も、同じようなことがあるように思います。上方といっても、大阪と京都は大きな違いがあって、いちがいには言えません。ま、京都はこしあんの総本山、大阪はこしあん的なものとつぶあん的なものの混合体、そして東京は基本的にはつぶあん的な色合いが強いと思うのですが、前に言ったトーキョーは擬似こしあんなんですね。そうしたものが複雑にからみあいながら、これまで日本の文化を引っ張ってきた。
ただ、話をわかりやすくするために、上方はこしあん、東京はつぶあんだと言ってしまっても、大きな間違いではないでしょう。その違いは、かなり根深く、しかも象徴的な深さもあって、昔からその違いをめぐる話は、マスコミにいろいろなカタチでとりあげられてきました。とくに、ぼくの読んだもののなかで、すごかったのは、司馬遼太郎さんと山口瞳さんの対談ですね。(司馬遼太郎対談集「日本人を考える」文春文庫)
いや、その面白いのナンのって。ぜんぜんかみ合わない。はじめから終わりまで食い違っている。で、二人とも歩み寄ろうともしない。
 司馬「ぼくは子どものころ、もし東京と戦争が起こったら、おれは肉弾三勇士にでもならなきゃ仕様  がないなと思ってました」(笑)
 山口「それでは、私はショーギ隊となって討死します」
といったぐあいなんですね。
「上方と東京の違いは、牛肉でも大根でも、西のほうはその辺の八百屋で食ってもうまいが、関東は料理屋は別として、素材がなんといってもまずい。可哀想だけど、物の味とか、建物とかは、やはり上方のほうが上じゃないかな」と司馬さんが言えば、「浅草っ子の久保田万太郎の文学碑は、竹馬やいろはにほへとちりぢりに、だそうですけど、このシャレッ気や心意気は好きだなあ。だいたい、大阪には俳句が似合わない」なんて山口さんが言う。ぼくもずいぶん対談をしたり読んだりしてきましたが、こんな対談にならない、それでいてすごく面白い対談ははじめてです。これもお二人が正直だからそうなるわけで、つまり、そのくらい、上方と東京の壁は厚くて、壁につよい養老さんでも手がつけられないくらいだと思います。
でも、だからいいんですね。前にも言いましたが、その二つの間を揺れ動くことで、日本の文化はそれなりに休むことなく動いてきた。それは、こしあんとつぶあんが、それぞれに、ちゃんとしたこしあんとつぶあんだったからであって、その品質がいいかげんだったら、とてもこうはいかなかったと思うんです。

それにしても、です。なぜそんなにあんこにこだわるのか。それも、こしあんとつぶあんの違いにこだわるのか。カフェオレとカフェラテの違いではどうしていけないのか、と思う人がいるかもしれない。で、次回からは、なぜあんこなのか、というモンダイの核心にわけ入っていくことにします。
その前に、伊予でもらったお菓子をどうぞ。お餅をこしあんでくるんだお団子ですが、何かに似てるでしょう。そう、あんこの上のウエーブが赤福にそっくり。で、名前は「福餅」でした。


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こしあんの退廃 [あんこ学]

ニュースやワイドショーのコメンテーターというのは、もっともらしい顔でうなずくうなずき屋でも、物知り顔で物事を解説する説明屋でもない。その場の意見がひとつになりそうになったとき、あえて違う意見を出し、議論を多角化する(面白くする)のがコメンテーターの役割だと、ぼくは思っている。つまり、正解はひとつじゃない、物事にはいろんな見方があるんだということを示すことで、テレビを見ている人たちに、「なるほど、そういう見方もあるな、でも、私だったらこう思う」といったように、「私だったら」という意見を引っ張り出すのが、コメンテーターのいちばん大切な役割だ。みんなが「こんなことが二度とあっては困りますね」なんて言ったら、「いや、あってもいいんじゃないかな」と、あえて言う。で、その場の話し合いをはずませる。そういう芸を持った人がコメンテーターであって、、そういう役目を果たさないコメンテーターを、ぼくはコメンテーターとは思わない。

という前置きをした上で、今回はかなり独断的な話をします。不愉快に思う人がいても、怒らないこと。これは、ひとつの見方です。わいわい話し合うためのネタです。話の材料です。
ジーパンはつぶあんだと、前に言いました。ジーパンの歴史は、19世紀の半ば、ドイツからアメリカに渡ってきたリーバイ・ストラウスという人が、金鉱掘りの鉱夫のための労働着として作り出したのが、そのはじまりです。それは急速に、開拓民たちの間にひろまり、やがてアメリカのシンボルのような存在になっていく。さらにそれが、1950年代には、ジェームス・ディーンの登場でブームになり、以後、世界中にひろまっていくわけですね。
荒々しい作業にも耐えるタフなツクリ。野生的な顔つき。どう考えても、これはつぶあんの魅力です。そのジーパンが、日本では60年代後半の若者文化の台頭とともに大流行する。で、ぼくのようなオジサン(当時すでにオジサンだった)も、ジーパンにTシャツ姿で、ビートルズを口ずさみながらマチを歩くようになるわけで、それはまさに、一種の「革命」でした。
そんな革命の攻撃対象というか、批評のホコ先は、既成のこしあん文化です。「会社至上主義」や「マイホーム主義」のなかに安住している大人たちの世界です。もっともらしい顔をしたそんなこしあん文化をけっとばせというので、学生運動に火がつき、アングラ芸術が活発になり、フォークソングやロックがマチに流れ、ヒッピーふうの長髪族が繁殖する、というような事態になったわけで、そんな革命の旗印というか、かっこいいシンボルが、ジーパンだったわけですね。
そこでのジーパンは、丈夫で長持ちという「実用的効用」と同時に、既成の権威を壊すという「文化的効用」をあわせ持っていた。同じ時期に、イギリスのマリー・クワントさんが作り出したミニスカートと同じくらい、いやそれ以上の破壊力をもって、ジーパンはこしあん的世界を壊すことに成功したんです。

そのジーパンがですよ、こともあろうにですよ、こしあんもどきになってしまって、いったい世の中、どうなっているのかと、きょうのぼくは言いたいのです。
そう、ダメージ・ジーンズに代表される、近ごろのファッションジーンズのことです。丈夫で、めったなことでは破れないことが誇りのジーパンを、わざとビリビリに破ってどうするんですか。それも自分では破れないもんだから、破ってもらったやつを買っている。あの世からリーバイさんが見たら、ほんと、泣きますぜ。(リーバイスでも売ってる?ああ、世も終わりだ!)
で、思うにこれは、ジーパンのこしあん化ですね。おしゃれなんてものに気をつかわないですむように作られたジーパンを、おしゃれ着にしようとするたくらみですよね。ま、その楽しさが、ぼくにもわからないではない。ぼくもジーパンは7,8本持っていますが、ちょっと破ってみようかという誘惑にかられたこともある。仕事着をおしゃれ着にしてなにが悪い、悪いどころか、それが本当のおしゃれじゃないか、という人もいるでしょう。
でもねえ、暮らしのなかではき古したジーパンと、ビリビリに破った新品のジーパンは、やっぱり違う。前者の場合は、人とジーパンの関係がこなれている。でも、後者は関係がギクシャクしている。その違いはとても大きいんじゃないでしょうか。つまり、前者はイキ、後者はミットモナイ、という違いがあるように思うのです。
なぜ、ミットモナイか。それは、おしゃれの意図がミエミエだからです。本当のおしゃれは、人におしゃれしていると感じさせないものですね。逆に、見えるおしゃれは貧しい。ぼくなんか、シャネルのバッグを買ったら、バッグについているシャネルのマーク類は、ぜんぶはがして捨てています。(あ、これは嘘です)
つまり、ジーパンのよさは、つぶあんのよさなんだから、それを大切にしてあげたい。洗練をめざすのでも、はき古す洗練(つぶあんとしての洗練)はいいけれど、やぶる洗練(こしあん化をねらう洗練)は、好きじゃないんですね、ぼくは。でも、いまのトーキョー人は、どうもこれが好きらしい。マチでそういう人たちを見かけると、ぼくは断腸の思いがするのですが、この「断腸の思い」がまた、トーキョー人には56%しか通じない。中には、「盲腸かもしれないという恐怖」とか「脱腸が痛いというイミ」なんて答えるやつもいるんだから、ますますこっちは「脱腸の思い」になるんですね。

はじめに言ったように、これはひとつの意見です。そうじゃないと思う方は、宮島名物「もみじ饅頭」を召し上がってから、異論・反論・オブジェクションを寄せてください。この饅頭も、こしあんがすばらしいのに、つぶあん入りやらクリーム入りやら、いまや雑居饅頭になってしまった。そんなら、外側ももみじじゃなく、かえでか何かにしろってんだ。


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私は混血児だ。 [あんこ学]

私は混血児だ。
父は西日本国の松山、母は東日本国の東京千住の生まれである。
ま、いまは、松山の出身だ千住の生まれだなんて言っても、親のほうがごちゃごちゃの混血になっていることが多いから、あまりイミがない。が、私の父が生まれた明治中期の松山には、先祖代々の松山人しかいなかった。「しかいなかった」は言い過ぎだとしても、9割は生粋の松山人だったと言ってよろしい。
東京の千住も、母が生まれたころはほとんどが千住の人だった。とくに女性は、玉の輿にのって遠くへ行く人もいたろうが、幸か不幸か母は輿にのることもなかったから、千住に生まれて千住で育ち、仕事を探して松山から東京に来ていた父と千住で結婚した。
というわけで、どちらもけっこう純粋な西日本人と東日本人であり、そんな二つの血が、いまも私のからだのなかで、日々、「あほ!」「ばか!」と言い合いをしながら同居している。(ま、もとをただせば、東日本人も西日本人もアジアのいろんな民族の混血だけどね)
で、私が生まれた戦前の東京には、まだ東日本の文化的気風が、というより江戸のそれが、色濃く残っていた。とりわけ、下町はその空気が濃く、家の中でも、ちゃきちゃきの江戸弁を使う母が多くをしゃべり、なもしなもしの伊予弁の父はすくなく答えるというカタチで暮らしていたように思う。
下町の路地にも、江戸弁はあふれていた。「ゆう坊、そんなところでしょんべんしやがって。おてんとさまはちゃんと見てるんだぞ、このぼけなす」と、口うるさく私を見守ってくれた近所のおじいさんやおばさんに、思えば私は育てられたようなものである。そう、どこの家でも、親というのは商売にいそがしくて、子どもなんかかまっていられなかったのだ。

それが戦後、特に1960年代から、一変した。路地がつぶされて自動車道路になっていくのと並行して、江戸が東京になり、あれよあれよというまにトーキョーになった。
この江戸と東京とトーキョーは、まったくの別物である。とくにトーキョーは、東日本国の都市というより、いまや東日本国にも西日本国にも属さない独立国家と言ったほうがいい存在になった。(トーキョー人を日本人と思うと大間違いである)
で、西日本国の中心都市・大阪が目の敵にしているのは、実は、このトーキョーなのだとぼくは思っている。大阪人だけではない、そのトーキョーは、旧東京人(江戸人)も嫌っているのだ。「永遠のメモリアルアート」なんて、旧東京人に言わせれば、「ケッ、ちゃんちゃらおかしくて、へそが茶をわかさア」ってなもんなのである。
ちなみに、「へそが茶をわかす」というこの江戸語もトーキョー人には半分くらいしか通じない。「広告批評」誌が若者100人を相手に行なった調査によると、この言葉に対する正解率は58%で、なかには「奇跡的なことが起こること」とか「へそに体温を集中して気を発すること」なんて答えるトーキョー人もいたという。
ところで、である。ここがモンダイの核心なのだが、このトーキョーでは、いま、あんこ文化が急速に衰えつつある。あんこっぽいものはいろいろあって、それはいかにもこしあん風の洗練顔をしているのだが、これがまったくのいかさまこしあんなのだ。こういういんちきこしあんは、「永遠のメモリアルアート」に葬らなければならないと私は考えているのだが、もはや夜もふけた。
つづきは次回にして、今夜のおもてなしは、このミニたいやきである。江戸が生んだこの庶民的エネルギーあふれる菓子を、なんと、こんな金魚みたいなケチな鯛にしやがって。ケッ、ちゃんちゃらおかしくって、へそが茶をわかさア。おい、みんな、さっさと食っちまおうぜ。


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続・西の復讐 [あんこ学]

前回のつづき。大阪ならではのケッサクCM選です。
これをみると、「くたばれ東京!」という大阪のエレルギーがいかにキョーレツなものかがわかります。

①大阪府
 (路上駐車を注意されたおばさんが警官に食ってかかる)
 「えー? みんな止めてるやないの!なんで私だけ言われなあかんのんな!失礼やわあ!
 (クルマのドアをあけようとするが、なかなかあかない)あけへんやないの、もう!」
 (ナレーション)おるおる、こういうおばちゃん。大阪の迷惑駐車。

②キンチョウ・ゴン
 (ちあきなおみが娘のセーラー服を着てたんすの前で踊る)
 匂わないのが 新しい
 たんすにゴン たんすにゴン
 匂わないのが 新しい
 あっ、センセイ、だめ!
 たんすにゴン 匂わないのが新しい
 あっ、だめ、センセイ!
 やまだセンセイ、だめ!
 あっ、たんすにゴン!
 (ナレーション)新防虫剤キンチョウ・ゴン

③ミスタードーナッツ
 (ダイニングキッチンで、娘がひとりさびしく「サンタでチュ」を持っている。)
 「ヒロシとマユミはサンタでチュ。カズオとクミコはサンタでチュ…」
 (父親がサンタでチュを持って入ってくる)
 「トシコ。お父さんとサンタでチュしようか」
 (娘は「ウウー!」とテーブルに突っ伏す)
 (音楽)いいことあるぞー、ミスタードーナッツ!

④日本食研
 (火事現場で3頭の牛が歌う)
 カンカンカンカン 晩餐館 焼肉焼いても家焼くな
 カンカンカンカン 晩餐館 焼肉焼いても家焼くな
 (ナレーション)焼肉するなら晩餐館。

⑤日清製粉
 (スーパーの店内)
客のおばさん「ほんまにうまいこと揚がんの?カラッと揚がんねんな。揚がらんかったら、二度と買  わへんでえ!」(と店員のおばさんに詰め寄る)
店員のおばさん「(猛然と反撃に出る)もう、奥さん、買わんでええがな、そんな言うんやったら!ゴ チャゴチャ言う奥さんやなあ、ほんまに!」(と客を押し返す)
(ナレーション)日清のこつのいらない天ぷら粉、揚げ上手。

⑥エルモアティッシュー
 (子ども部屋のドアをあけてティッシューの箱を差し出す母親)
「まあちゃん、勉強ばっかりしないで、たまにはティッシューも使いなさい」
 (ナレーション)ティッシューはエルモア。

⑦関西テレビ
 (テレビ局の中。誰もいないガランとした通路)
 (奥から、着物姿のクラブのママさんが、ホステスとバーテンをつれてやってくる)
ママ「関テレさーん!どこ行ったんや、みんな。ヤマちゃーん!オーちゃーん!ツケ払うてえな!困  るやんか!」
 (ナレーション)関西テレビは引越しました。扇町で会いましょう。

⑧どんでんねん
 (うどんを食べる岡田彰布と坂田利夫)
 「それ、なんでんねん」
 「うどんでんねん」
 「うどんのおつゆ、なんでんねん」
 「うどんでんねん」
 「うどんでんねんって、どんなんでんねん」
 「どんなんて、こんなんでんねん」
 「こんなんがどんなんでんねんなあ」
 「こんなんがどんなんでんねんでん」

こういうテレビCMは、ほんとは動く映像でお見せしたいんですが、そうもいきません。あなたの想像力で、そこは補ってください。
このなかのどれひとつとして、東京では作れません。仮に作っても、スポンサーからOKが出ない。こういうCMは、大阪という空気の中でしか生まれないんですね。ここには、人間という生き物の虚飾をとことん剥ぎ取って、その本質をリアルに見つめようとする目があります。それが、うわっつらのカッコばっかりつけたがる東京的広告への痛烈な批判になっている。こういう大阪のやり方を「身もふたもない」と嫌う東京人もいますが、さて、東西2国間のこの断絶を、どうわれわれはとらえていけばいいんでしょうか。
ところで、これはテレビCMですが、ほかの分野でも、こういう大阪ならではのものがいっぱいあると思うんですね。ぼくはCMのことくらいしか知らないので、知っている方はぜひ教えてください。
というわけで、次回からは、アンコロジイの核心に迫っていこうと思っていますが、さて、どうなることやら。

というわけで、きょうはあえて東京と大阪を避け、山口の銘菓です。「舌鼓」。山口の人に言わせると、これは値段が張るので、お遣い物としてしか、買うこともないし、もらうこともない。何かまずいことがあったときなど、これを持ってあやまりに行くと、すぐに許してもらえることが多いんだそうです。中は品のいい白あんでした。きょうはこれで許してね。


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西の復襲 [あんこ学]

日本という国は、実は二つの国からできています。二つの国が合併して出来た国といってよろしい。
ふたつの国とは、東日本国と西日本国です。前にも話しましたが、日本国が成立した7世紀には、東日本と西日本は、ほとんど別の国でした。ま、大和朝廷が勝手に「日本」を名乗ることにしただけで、べつに東日本の人たちに同意を得る手続きをしたわけでもない。東日本のほうは、別に国家なんていう意識はなかったから、「勝手にすれば」と思っていたんでしょうね、よく知らないけど。
で、西のほうは勝手に、自分達が日本国の中枢だと思って、いろいろやってきた。その中枢が東日本に移ったのは、源頼朝(実権は北条氏)のときが最初ですが、本格化したのはやはり徳川家康以降ということになるでしょう。でも、そのときはまだ、天皇は京都にいましたから、実権が100%東に移ったってわけじゃない。やっぱり、明治維新があって、天皇が東京に引っ越してきたとき、名実ともに東日本の東京が日本の中枢になったんですね。
ハイハイハイハイ、ここまでは歴史の授業ですが、薩長政府にいっぱい食わされ、天皇においてきぼりを食った西日本の逆襲の歴史が、実はこの時点から始まるんです。あんな東京なんて文化果つるところが、なんで日本の中心や、笑わせるな、あほぬかせ、というわけです。
だいたい、天皇さんは東京にちょっと行ってくる、と言って出かけていきはったんで、正式に引っ越されたんと違う。京都の御所にまた帰ってきはるんや、と、いまでも思っている人が京都にはたくさんいるくらいですからね。東京なんて、ばかにしきってる。
「上方」って、いまでもいいますよね。上方歌舞伎とか上方落語とか。昔は知らず、いまはもう上方ではないでしょう。東京から京都や大阪へ行く電車は下りですよ。上方は東京なんですよ。でも、がんこに上方と言い張っているのも、東京への復讐の一種だと言っていいでしょう。
ま、そんな復讐の歴史は、文科省検定の歴史の教科書にはのっていません。だからこそ貴重なのですが、が、その具体的な例を、ご紹介しましょうか。

たとえば、広告です。もともと広告の本場は、商都大阪です。が、そのリーダーシップを東京に奪われた。以来、関西の広告は、東京の広告の薄っぺらさを徹頭徹尾おちょくるというか、こけにするというか、やっつけるというか、そんな精神で作られるものが多くなりました。それは明治にはじまって、いまも続いています。
「さかい~、やすい~、仕事きっちり~!」
ってCM、知ってますよね。さかい引越しセンター。あれこそ、大阪ですね。
東京は、ああはいきません。もっとかっこつける。
♪ア~ト引越しセンターへ~
といったぐあいです。大阪人から見たら、たかが引越しで何がアートや、何を気取ってるんや、ということになる。
次は、墓石の広告。東京はこうです。
「永遠のメモリアルアート」
それが、関西だと、こうなる。
「墓のない人生は、はかないなあ」
わかりますね、違いが。「墓のない人生は、はかないなあ」のリアリズム。人間観の成熟。感動的なばかばかさ。ま、関西人に言わせれば「永遠のメモリアルアートなんて、そんなところにうちのじいさん入れたら、たまげて生き返ってしまうわ、あほくさ」ということなんでしょう。ぼくは東日本国の住人ですが、死んでも「永遠のメモリアルアート」にだけは入りたくありません。
というわけで、西の広告には、感動して数日は立ち上がれなくなるようなものが、ぞろぞろあります。今回だけではとても紹介しきれないので、次回にたっぷり、うんざりするくらいご紹介することにしましょう。

ところで、先日、四国松山と京都へ行ってきました。松山から大阪伊丹への飛行機がプロペラ機で、低空を飛ぶ。で、そこから見る瀬戸内海は、まるで赤福のようでした。で、京都からの帰りに赤福を買ってきてしまったというわけです。ぼくが「日本三大こしあん」のひとつにあげている赤ちゃんを、ま、一口どうぞ。



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しつこく寄り道 [あんこ学]

前回の最中は、横浜の喜月堂の最中です。前に写真をのせたときに書いたつもりでしたが、抜けていました。逸品です。いや、別品です。
一茶についても、抜けていることだらけです。それを少しだけ、埋めておきます。
俳句に口語調を取り入れたのは、一茶が最初だという説もありますが、じつはもっと古く、芭蕉の弟子の惟然(いぜん)あたりからはじまっているようです。
  水鳥やむこうの岸へつういつうい
なんていうのがあるんです。こういう口語をとりこむ動きは、その後、ちょっとしたブームになったようですが、やがて消滅する。それを一茶が、100年後に復活したということでしょうか。
  うまそうな雪がふうわりふうわりと
  ああ寒いあらあら寒いひがん哉
  ああままよ年が暮れよとくれまいと
こういう句を見ていると、一茶という人は自分をとりまく自然やら風物やらをすべて人間化していく人なんだな、という気がしてきます。そこが、自然や風物のなかに自分を無化していく芭蕉や、自然や人間を客体化してとらえていく蕪村との、大きな違いがあるように思うんですね。
ま、自分でもよくわからないことはこのくらいにして、一茶の句をもう少し紹介しておきましょう。
  春雨に大あくびする美人かな
  露の世は露の世ながらさりながら
  うつくしや障子の穴の天の川
  秋風やあれも昔の美少年
  猫の子がちょいと押さえるおち葉哉
  ざぶりざぶりざぶり雨ふるかれの哉
  大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
  是がまあついの栖(すみか)か雪五尺

きょうの目のおもてなしは、到来品の白小豆羊羹です。小金井の和菓子処「里の木」の銘菓ですが、竹の皮の包装が好ましい。薄墨色の羊羹のなかに、うっすら浮かんで見える白小豆がまた、なかなか風情があります。では、いただきます。
   


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