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色即是空、ゴーン! [あんこ学]


ご存じ、安珍と清姫です。一目ぼれしてモーゼンとせまる清姫から、安珍は言葉巧みに逃げるのですが、それでもあきらめぬ清姫は、蛇身と化して追いかけていく。道成寺に逃げ込んだ安珍は寺の僧侶たちに頼んで鐘の中に身を隠すのですが、清姫はそんなことではあきらめない。大蛇となってその鐘にからみつき、火焔を吐いて鐘ごと安珍を焼き殺してしまう。見てください。焼かれた鐘の中から、黒焦げの安珍がコロリと出てくる絵がこわいですね。


それにしても、鐘にうらみはかずかずござる、亡くなった歌右衛門の「娘道成寺」は、ホント、すごかった。美しさも絶品でしたが、それだけじゃない、こわいんです。白拍子の美しさのなかから、ときどき、ギラッと蛇性の目が光る。あの人の娘道成寺が見られる時代に生まれ合わせて、本当によかったなと思います。ぼくらが出している「広告批評」という雑誌で、歌右衛門さんと淀川長治さんの対談をやったときは、うれしくってもうドキドキものでした。
ま、それはともかく、その説話の舞台をいちど見てみたいと、だいぶ前ですが、紀州の道成寺へ行きました。物静かなたたずまいのお寺で、本堂には国宝や重要文化財の仏像がたくさん置いてあるのですが、やはり観光客に人気があるのは、鐘つき堂の跡なんですね。もちろん、鐘はありません。呪われた鐘はどこかへ持ち去られてしまっていて、いまは鐘つき堂の台座みたいなものだけが残っている。そのまわりに人びとが集まって、思い思いに「ない鐘」を見上げているんですね。
ないんですよ、鐘は。ないのに、みんな見ている。ないものの先にある何かを見ている。そいう目をしている。そうなんですね。この道成寺の名物は「ない鐘」なんです。「ない鐘」が、人を集めているんです。「色即是空、空即是色」……あるからない、ないからある。思わずぼくは、この言葉を思い出してしまいました。
で、こしあんです。こしあんは小豆で作っているのに、小豆が見えない。口に入れても、つぶあんほどには小豆に特有の味や匂いが感じられないんですね。頼りないというか、存在感がないというか。しっかりしなさいよ、どうしてお前はそうなの、と、つい言いたくなってしまう。
でもね、思うに昔の人は、とぼくは思うのですが、小豆がへんに自己主張して、「おい、おれだおれだ、おれはここにいるぜ」なんて言っているのがいやだったんだと思う。小豆がへんにがんばっている姿を見て、「みっともない」と感じたんじゃないでしょうか。だいたい「頑張る」というのは「頑なさを通す」ということで、江戸時代には嫌われた言葉だったんですね。(亡くなった杉浦日向子さんがよく言ってましたっけ)。個性とか自我とか、そんなみっともないものは恥じて隠すのがふつうであって、それでもなお、隠した下からはみ出してきてしまうものが個性だ、と言えばいいでしょうか。
というわけで、小豆なのに小豆が見えない。あるのにない。でも、ないからある。なんだか禅問答みたいですが、もともと日本の文化は禅の落とし子みたいなところが多分にあるんですね。そんなこんなで、こしあんは、日本文化の本質を、あのとらえどころのない黒いからだで、精いっぱい表現しているんじゃないか、とぼくは思っているのです。
だが……です。そうは問屋がおろさない。そんな簡単に片づけられたら、つぶあん派の立場はどうなるんだ、ブリーフをはいてる人間は日本人じゃないっていうのか、この野郎いいかげんにしろ、という声が野に満つることでしょう。
そうなのです。話はこれでは終わらない。むしろここからまたはじまると言ってもいいのですが、つづきはまた来年、ということにします。どうぞいいお年を。で、来年もこのバカ話につきあってください、、どんどん意見を言ってください。
大晦日愚なり元日なお愚なり 子規
ゴーン!


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