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見巧者の話 [あんこ学]

四国の松山で、竹本住大夫さんにお会いしてきました。住大夫さんといえば、人形浄瑠璃の第一人者で人間国宝の方ですが、ちっともえらぶったところのない、それどころか、大阪弁で気さくに話される、ぼくの大好きな人です。冗談まじりで話されることが、実は奥の深い芸談になっていたりして、しんそこ楽しい時間を過ごしました。ちなみに、この人間国宝はつぶあん派だったことを、ご報告しておきます。
なんて言いながら、ぼくは文楽の舞台を、まだ5回くらいしか見ていません。歌舞伎はかなり見ていますが、それでも「通」なんてとても言えない。だから、えらそうなことは言えないのですが、昔は
「見巧者」という言葉がありました。みごうしゃ。見るのが巧みな人。目の肥えた人。歌舞伎や文楽の観客のなかには、そんな見巧者がたくさんいて、「よっ、待ってました!」とか、「日本一!」とか、「引っ込め、大根!」とか、応援や批判のやじを飛ばして、舞台の質を支えていたんです。そう、舞台というのは、役者や芸人がつくるもんじゃない、観客がつくるんですね。
で、そういう見巧者というのは、見方がじつに細かい。芸のディテールにうるさい。たとえば、近松門左衛門の「曽根崎心中」を見るとしますね。いまの観客だったら、あんなことで死ななくていいんじゃないか、とか、二人を苦しめている封建的な社会制度にモンダイがあるんじゃないかとか、広い視点からものを言う。でも、当時はそういう視点は閉ざされていましたから、必然的に観客の目は、芸の細部へ細部へと、向けられていったんですね。で、「きょうの幕切れの藤十郎は、もうひとつ手のあげ方が低かった」なんてことを言う見巧者が生まれていったんだと思います。
つまり、目(と耳)だけが異常なくらい洗練された観客が多くなっていったわけで、そういう観客の要求にこたえるために、芸もまたどんどん洗練されていく。日本の伝統芸能の洗練度の高さは、そんなところから生まれてきたんじゃないでしょうか。
それはまた、芸能だけでなく、日本の伝統文化全体に言えることじゃないか、とぼくは思っています。あの、和菓子のネーミングやデザインの洗練ぶりを見てください。洋菓子にも、もちろんしゃれたのはたくさんありますが、とても和菓子の敵ではない。そして、究極としてのこしあんの洗練……と話をもっていきたいところですが、急いてはことを仕損じる、加藤周一さんのすばらしい文章をちょっとご紹介して、それから、松山でもらったへんな大福の話をして、それから、きょうは寝ることにしたいと思います。

「いまここの日常的世界は、私たちの感覚を通して与えられる。その世界を、それを超える何ものかと関連させることなしに一つの文化が成熟すれば、そこには感覚の無限の洗練が起こるだろう。たとえば、色の感覚は鋭くなり(平安朝日本語の色名の豊富さ)、嗅覚は冴え(香合せ)、耳は複雑な倍音を聞き分けるようになる(能の鼓)。そのような感覚の洗練の極致が集中して成立したものが利休の茶の湯であろう。その意味で、利休は決して孤立していたのではなく、一つの感覚的文化を要約していたのである。」(加藤周一「日本その心とかたち」より・徳間書店)

さて、と。松山からの帰りに、知人がおみやげをくれました。「霧の森大福」っていうの。四国中央市で作っていて、ネット通販のお菓子の第1位になったこともあって、大評判だからなかなか手に入りにくくて、という話題の大福だそうです。
で、あんころじすととしては、家に帰ってすぐ口に入れてみたのですが、中身がななななななななななななーんと、こしあんと生クリームの詰め合わせではありませんか。
正直言って、この味は、あんころ爺にはよくわからない。で、仕事場ヘ持って行きました。で、仕事場の若い女性5人に試食してもらったところ、
女性①後味がさっぱりしていて好き。
女性②おいしい。どうおいしいかって、ただおいしい。
女性③クリームが好きだから好き。
女性④上品ですね。
女性⑤もう一つ食べていいですか。
という反応でした。
ま、いまはこういうのがはやりなんでしょうか。おおむね、評判がよろしいようで。
よろしかったら、おひとつ、どうぞ。


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