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こしあんは宇宙である? [あんこ学]

日本の文化が、中国の影響からなんとか抜け出して、独自の花を咲かせたのは、室町時代だといわれています。で、その代表は、なんと言っても、「茶の湯」でしょう。
あ、ぼくは伊右衛門をラッパ飲みしてるほうですから、茶の道のことはまったくわかりません。
でも、あちこちの有名な茶室をのぞいたり、りっぱな茶器を見たりするだけでも、(そうそう、元首相の細川さんも、いい茶器をつくるんだよなあ、血筋かなあ)、その洗練された美しさがわかります。あの芭蕉さんも、「一休の禅における、世阿弥の芸能における、宗祇の文学における、雪舟の美術における、その貫通するものはすべて究極」と絶賛していますが、この人たちと同じころに能阿弥という、連歌師で画家で鑑定家の人がいて、茶道の基礎を作ってるんですね。その後、数十年で千利休という天才が現れて、アートとしての茶道を確立した。茶室のツクリといい、その簡素な内装やインテリアといい、そこで使われるいくつかの茶道具といい、いやもう、洗練の極みといっていいように思います。
と言っても、伊右衛門をラッパ飲みしているぼくが、茶の道についてもっともらしいことを言ったら、それこそヘソが茶を沸かす。だから、そんな茶番はやりません。
ただ、ものの本によると、茶人のことを「数奇者」(すきもの)というんですね。で、茶碗の美を「数奇の美」、茶室のつくりを「数奇屋づくり」という。で、この「数奇の美」については、古来、いろんな解釈があるらしいんですが、岡倉天心さんは、「数奇屋」とは「好みの住まい」という意味であると同時に、余計な装飾を一切排除した「空き家」(すきや)だと言っている。人間の想像力を働かせるために、わざと何かを未完のままにしておく、不完全なままにしておく、そこに数奇屋の意味がある、というわけです。それに対して、柳宗悦さんは、完全とか不完全とか、そんな境界をこえたところにある「自由の美」こそ、数奇の美の本質だと言っているんです。ちょっとむずかしいけど、面白い話だ思いませんか。

そこで突然ですが、「こしあんの美」もまた、同じようなものではないか、とぼくは思うのです。たとえば、銀座木村屋のこしあんぱんは、実は「空き家」なんですね。あんこが入っているように見えるけれど、実は入っていない。いや、正確に言えばですね、そりゃ入ってますよ。でも、入っていることを意識させない。そこが、こしあんの数奇なところというか、風流なところというか、粋なところというか、好きなところなんですね、ぼくは。「おい、おれはあんこだぜ、あんこ人生もたいへんなんだぜ」なんて、へんな自己主張をまったくしない。
それはまるで、宇宙のようですね。宇宙は無の空間ですが、じつは無じゃない、ぎっしり何かがつまっている。でも、それを感じさせませんよね。
おそらく、こしあんをはじめて作った人も、あんこであることを感じさせないあんこをつくろうと思ったに違いない。自分の作ったものに「高級つぶあん」なんて、やぼなレッテルを貼りたくないと思ったんでしょうね。そうだ、作り手の技術や努力を、まったく感じさせないあんこにしよう。見える技術や努力は、しょせん貧しいのだ。

ぜったい承服できないでしょ? いいんです。承服しないでください。でも、こしあんを愛するには、このくらいこしあんにのめりこまなければいけない。こしあんのなかに身を投げなければいけないと、ぼくは思うんですね。
ということで、お疲れの目に、銀座木村屋の「五色ぱん」をどうぞ。写真は(上右から左へ)桜(こしあん)、つぶあん、こしあん、(下右から)白つぶあん、うぐいすあん。
念のため、桜あんぱんを二つに切ってみました。中が空っぽに見えるでしょ?え?見えない?そうですか。


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