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人前のキス。 [あんこ学]

きょう、、渋谷の人通りのなかで、抱き合ってキスをしている若い二人を見ました。あなたは、こういう光景を見たとき、みっともないと思いますか。
ぼくは思いました。えーっ!といわれても、そう感じるんだからしょうがない。
でも、なぜ、そう感じるのか。そこがモンダイです。
愛し合っている二人がキスすること自体は、自然なことです。けっこうなことです。どんどんやればいい。ただ、路上で、人目をはばからずにやるのは、ちょっと困る。
なぜ困るか。思うに、そんな「しぐさ」の文化が、日本にはないからです。
「しぐさ」も言葉の内です。たとえば、アメリカ人が、両腕をひろげ首をすくめて「オー、ノー!」って、よくやりますよね。あのしぐさは「オー、ノー!」という言葉とちゃんと対応しているわけで、ぼくら日本人が「とーんでもない!」といいながらあのしぐさをしてごらんなさい。ぜんぜんヘンチクリンというか、似合わないんじゃないでしょうか。
それと同じようなもので、街頭でキスをするという「しぐさ言葉」が、日本にはないんですね。ない言葉を使おうとするから、見ていてぎごちない感じがする。ぎごちないから、みっともなく見えてくる、ということじゃないかと思うんです。
もっとも、いまは日本語もどんどん変わっているから、路上のキスも自然なしぐさになってくるのかも知れない。でも、そう変わることがいいことかどうか。ま、これはいい悪いのモンダイではないのですが、ぼくには疑問です。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本の女性の礼儀作法の完成度の高さに、もはやそれは芸術の域に達していると、手放しで感動しています。「洗練の極致」とは、ああいうものを言うんだろうと、ずっとぼくも思ってきました。
ま、いまどきそんなものを懐かしがってもあとの祭りですが、あの洗練された「しぐさ」は、当時の日本語の洗練度と、ぴったり寄り添っているというか、表裏一体のものだと、ぼくは感じています。(これは、小津安二郎の「東京物語」を見ればよくわかります)
ところで、こうした日本文化に独特の感覚的洗練性は、和菓子の感覚的洗練性と深くつながっている。そして、あんこの問題もまた深くかかわってくる(かもしれない)と、思うんですね。で、そこへ突っ込む前に、みっともないというのも、100%感覚のモンダイなので、以下の例を「みっともない」と感じるかどうか、教えてくれるとうれしいです。
①路上のキス。(人通りの多い午後3時)
②歩き食い。(おにぎりとか肉まんとか)
③らっぱ飲み(水やコーラのびん)
④バイキングの山盛り(われながら取りすぎた!)
⑤道端のうんこずわり
⑥ごみの無分別(ひとに見られた!)
⑦全身一流ブランドづくめ(で宵の銀座を歩く)
*ほかに、みっともないと感じることがあったら、ぜひ。
明日から、3日ほど、四国の松山へ行きます。一六タルトと山田屋まんじゅう、食べてきます。


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