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最後の切り札 [ことばの元気学]

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アメリカの連続テレビドラマ「ザ・ホワイトハウス」(原題「THE WEST WING」) が好きだ。ホワイトハウスの中で、大統領と補佐官たちがどんなすさまじい日々を送っているか。その姿が、かなりリアルに、まるでドキュメンタリーを見るような感じでつくられている。「ER(救急治療室)」と並ぶ連続テレビドラマの傑作だと、ぼくは思っている。

その中に、当然、大統領執務室が出てくる。もちろんセットだが、いまはその執務室にオバマさんがすわって、首席補佐官とひそひそ話し合ったり、スピーチライターにダメを出したりしているんだろうと想像していると、残念ながらニッポンのアソーさんよりも、ずっと身近な存在に思えてくるから悲しい。

ブッシュさんが大統領のときには、このドラマを見ていても、ぜんぜんそんな気がしなかった。
それが、オバマさんに変わったとたんにそうなってきたのは、それだけオバマさんに対するこっちの期待が大きいからだろう。期待が大きいから、そのぶん存在が大きく見えるし、そのぶん身近な人に思えてくるのだ。

なぜ、そう感じるのか。
いうまでもなく、オバマさんの出現で、ようやく21世紀が始まるだろうという予感があるからだ。アメリカが変わるとか、世界が変わるとか、そんな問題じゃない。

「21世紀が始まるかもしれない」という予感。

外国の大統領のことで日本まで浮かれているのはばかみたい、という批判は、そういう意味で当たらないとぼくは思っている。
実際には、オバマさんだって、そううまくはいかないだろう。アフガニスタンへの対応などを見ても、首をかしげたくなってくる。
が、それでもなお、オバマさんには、21世紀人の匂いがある。
この人でうまくいかなかったら、もう終わりだと思わせるくらいの何かがある。

そう、いわば、「最後の切り札」といったイメージがあるのだ。

この国で、アソーさんがオザワさんに代わっても、ここまでワクワクはしないだろう。
残念ながらそれは、20世紀のなかの出来事だからである。

アソーさんの交代は歓迎だが、いま、みんなが心の底から強く望んでいる「変化」は、そんなものではないのだ。


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大統領のゴスペル [ことばの元気学]

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夜中の2時にオバマさんの演説を聞きました。
その感想は、朝日新聞の「CM天気図」に書いたので、よかったら見てください。(来週火曜日・27日掲載)
ただ、スペースの関係でそこには書けなかったことがあります。
それは、オバマさんの演説の音楽性についてです。

この人の演説には「音楽」がある。
彼の演説を最初に聞いたとき、直感的に感じたのは、そういうことでした。
彼が黒人の血をひいているということもあって、なんというか、「ゴスペル」のような空気が、演説の通奏低音のように流れている感じがしたんですね。

といっても、ぼくはゴスペルが特に好きとか、ゴスペルに強いとか、そんなことはまったくない。
昔からマヘリア・ジャクソンやアレサ・フランクリンが人なみに好きという、その程度のゴスペルファンです。
それでも、その音楽には、「助けてくれ!」と叫んでいる切実さがあるところに、とても惹かれる。「“表現”とは助けてくれと叫ぶ行為だ」と言ったのはたしか大江健三郎さんですが、そういう意味でのすばらしい「表現性」があるように思うのです。
もともと"expression"(表現)というのは、たとえばミカンをギュッと押しつぶした時に、中からたまらずに汁が飛び出してくるような状態を言うらしいのですが、まさに外界からのさまざまな圧力に押しつぶされそうになった人間の内部から、本能的に飛び出してくるもの、それが表現という人間的行為であり、ゴスペルはその典型的な例と言っていいんじゃないでしょうか。

ちなみに、「ゴスペル」というのは、「福音」という意味ですね。「いいお知らせ」のこと、「グッド・ニュース」ということです。オバマさんの大統領就任演説は、多くの人びとにとって、「グッド・ニュース」に満ちていました。とりわけ、ブッシュさんに絶望していた人たちにとっては、なによりの「福音」でした。
その演説のバックに、ゴスペルの響きを聞いたような気がしたのは、彼の言葉の修辞的な力や、彼の語りの音楽的な力によるものでしょうか。それとも、彼が黒人の血を引く人であることから、こっちが勝手にそう感じてしまっただけのことでしょうか。

まるで「救世主」のように期待されてしまって、オバマさんもたいへんでしょうが、なんとかうまくやってほしいなあと思います。そう、20世紀の亡霊退治を、しっかりやってね。

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身の丈サイズのことば [ことばの元気学]

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「社員は15人までがいい」
と、昔、建築家の菊竹清訓さんが言っていました。
仕事場のメンバーが15人までなら、お互いにそれぞれの顔がよく見える。でも、それが50人、100人になっていったら、ひとりひとりの顔なんか見えなくなってしまう、というんですね。
なるほど、いいこと言うなあと思って、「広告批評」の仕事場は、ずっと15人を越えないようにしてきました。(貧乏会社だからそれ以上はやとえなかったというほうが正しい?)
ま、何人くらいがいいかというのは、業種や仕事の中身によって違うと思いますが、たしかにメンバーが100人をこえたら、知らない顔も出てくる。これが1000人、いや1万人なんてことになったら、道で会ってもまったくわからない人のほうがほとんどになりますよね。

話はとつぜん飛びますが、そうなると、リーダーはメンバーのクビも切りやすくなります。1万人の会社で100人のクビを切るなんていうのは、別にたいした痛みは感じないんじゃないでしょうか。それが「ハケン」だったりしたら、なおのことです。

「巨大化したものは暴力化」するというのは、たとえばそういうことですね。そこでは、メンバーは、切っても血の出る「人間」じゃない。ただの「数字」なんです。

「スモール・イズ・ビューティフル」のシュマッハーさんは、「巨大化→暴力化」の道をまっしぐらに走ってきた20世紀にサヨナラするためには、すべてを「身の丈サイズ」でとらえ直すことが必要だ、と言いました。とくに「身の丈サイズのテクノロジー」と「身の丈サイズの経済システム」を説くと同時に、その具体的・実践的なモデルづくりを開発途上国でやってきたのです。

当時は多くの人から絵空事と言われたこの考えも、いまはすごいリアリティを持つようになりました。この大不況を乗り越えたらまた元に戻るのではなく、この大不況を機に、巨大化した経済社会のシステムを身の丈サイズに「チェンジ」することが、いちばん大切なんじゃないかという気がします。

というわけで、この際、アソーさんにも、「身の丈サイズの言葉」でしゃべることをおすすめしたい。ちゃんと読めないような漢字を使わなくても、
「未曾有の」→「めったにない」「あっとおどろく」
「踏襲」→「そのまんまひきつぐ」
「頻繁」→「しょっちゅう」「ちょういちょい」
でいいじゃないですか。

自分でも読めない漢字を使うということは、実感なしにしゃべっているのと同じことです。
読み違えがモンダイなんじゃない。実感のともなわない言葉は決して相手に届かない。そこがモンダイなんですよ、アソーさん。
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あんこ玉の魂 [ことばの元気学]

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さっき、渋谷へ出たついでに、舟和のあんこ玉の黒(あずき)を3個買ってきました。1個50円ですから、3個で150円プラス消費税です。
ま、値段はともかく、3個でもいやな顔ひとつせずに売ってくれるところがうれしい。同じ舟和のあんこ玉でも、店によってはバラ売りはしてくれないところもあります。で、仕方なくセットで買うと、白あんや梅あんや、場合によっては芋ようかんまでついてくるんですね。これは困る。ぼくはあんこ玉は黒と、子どものころから決めているんです。

なぜ、そんなにあんこ玉が好きか。もちろんおいしいからですが、それだけじゃない。安いからというのもありますが、それだけでもない。
小さいからです。この小ささがすばらしい。
あんこ玉の直径は、3センチです。昔は、たぶん1寸(3・3センチ)だったんでしょう。
「一寸の虫にも5分の魂」という諺がありますが、
1寸の黒い球体の中にあんこの魂が宿っているといった感じなんですね、あんこ玉は。

それにしても、誰がこの大きさをきめたのか。
食べてみればわかりますが、いい大きさですよ、これは。
おいしいからといって、これがもし、たどんみたいにでかかったら、どうなるか。ソフトボールみたいに大きかったらどうなるか。だめですね、これは。
逆にパチンコの玉みたいに小さかったらどうか。これもいけません。

つまり、このサイズ以外には、あんこ玉は考えられない。そのくらい、完成度が高いのです。

ただし、ナマ菓子だから、日持ちはよくありません。翌日までしかもたない。だから、あんこ玉が好きなのはぼくしかいないわが家では、8個も10個も買うわけにはいかないのです。バラ売りをしてくれないと困るんです。

ところが、世の中には、ボール箱に詰めたセットでしか売ってくれないところがある。お客の都合に合わせて売るんじゃない、売り手の都合に合わせて、つまり経済効果第一の発想で売るわけですね。で、いまの世の中、そんな不都合がフツーのことになってしまっている。ジョーシキになってしまっている。
そうなんです。簡単にいってしまうと、これが「大きいことはいいことだ」の思想です。20世紀の思想なんですね。

これでは困る。だいたい、資本主義というのは、放っておけばどんどん巨大化する。で、巨大化したものは必ず暴力化する。そうならないように制御する知恵がぜひ必要だと、1960年代に説いた人がいます。ドイツのE・F・シュマッハーという経済学者です。で、彼は「スモール・イズ・ビューティフル」という本を書いたんです。

ま、むずかしい話はよしますが、この人は本当にすごい人です。
スモール・イズ・ビューティフル。
「小さいことはいいことだ」というのは、この人の「スモール・イズ・ビューティフル」を、ぼくなりに訳したことばです。

さて、話はまたにして、買ってきたあんこ玉を早く食べなくっちゃ。




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一茶ではじまる [ことばの元気学]

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寝正月の友は、このところ、もっぱら一茶です。
こたつに入って一茶の句集を読むともなく読んでいると、いつのまにかうとうと寝てしまう。
ことしから、こたつは丸こたつにしました。四角よりも角がとれているのがいい。
で、丸いこたつの上に汁粉(もちろんこしあん)があったりしたらサイコーです。

仕事場から出す去年の年賀状は、
めでたさも中くらいなりおらが春
でした。ことしは、
春立つや菰(こも)もかぶらず五十年
と、毎年、一茶さんのお世話になっています。

本当は、ことしは、
初雪や一二三四五六人
という句にしたかったのですが、仕事場の連中が「菰もかぶらず五十年」のほうが、「広告批評」にふさわしいというんで、それに従いました。ただし、その句のあとに小さな字で「広告批評は三十年」というコピーをつけた。そう、ことしの四月で広告批評は創刊三十年になるんです。で、その号で休刊にしますので、「四月以降は暇つぶしにいそがしいぞ」と気持ちを新たにした次第です。

それにしても、たいへんな年の明けですね。
でも、実はことしから、21世紀がはじまるんだと、ぼくは思っています。去年は21世紀じゃなく、20.9世紀だった。
本当の21世紀の幕開けはことしです。
で、21世紀のスローガンは、こうです。

小さいことはいいことだ。

これについては、またゆっくり。
あ、いまテレビで、麻生さんが何かしゃべってる。もうボロボロですね。20世紀の化石みたい。お疲れなんですね。

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年賀 [ことばの元気学]

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