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即興画人 [ことばの元気学]

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安野光雅さんがアンデルセンの「即興詩人」の口語訳を上梓した。
「即興詩人」といえば、森鴎外の伝説的な名訳がある。文語体の日本語の美しさの、これ以上は考えられないお手本として、評価の高い訳文だ。
が、残念なことに、いまの若い人に文語はなじまない。鴎外の名訳を、品位を損なわずに口語に置き換えようと、安野さんは五年がかりでこの大作の口語訳をやってのけた。たいへんな労作である。

隠居大学の最終回は、その安野さんを客人に招いて、口語訳の苦労から、いまの日本語の問題、さらには安野さんの「旅」の話などなど、脱線に次ぐ脱線で、楽しい話をいっぱい聞くことができた。

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「即興詩人」は、安野さんにとって、かけがえのない「青春の書」であるという。たしかに、「即興詩人」とか「若きヴェルテルの悩み」とか、昔の青年にとっては、自分の青春と切り離せない本があるものだ。ぼくも鴎外の「ヰタ・セクスアリス」なんて、夢中になって読んだもんな。
が、それだけじゃない。安野さんのふるさとは津和野。鴎外は同郷の人だ。郷里の大先輩が遺した偉大な作品をこのまま埋もれさせたくないという強い思いがあったんだろう。

それにしても、鴎外はなぜ、「即興詩人」の訳を文語体でしたのか。「ヰタ・セクアリス」だけじゃない、「山椒大夫」も「阿部一族」も「渋江抽斎」も、口語体で書いているのに、「即興詩人」(や「舞姫」)は、なぜ文語体なのか。当時は言文一致運動が行われていた時期だから、その進展具合と作品の執筆時期との関係があったのか、それとも、「即興詩人」や「舞姫」は、口語体ではなく文語体で訳されることを望んでいると作者が感じたのか……。

鴎外と同時代を生きた正岡子規も、はじめは原文一致運動に反対していた。
「言文一致はとかくくどくうるさく長々しきものなり。従って読みにくく解りにくく、あるいはあくびを生ずるところ多し。これを無暗に主張する人、主張者にそそのかされて尻馬に乗る人、実にも哀れな人々かな」と言っている。
もっとも、子規は頭から言文一致を否定してるわけじゃない。げんに、談話や告示や手紙のようなものは言文一致でわかりやすくしたほうがいいと言っている。が、芸術的な表現のように虚構の世界をつくりだしていくものは、言文一致とはソリが合わない。つまり言文一致がいいかどうかは、「文章の目的と趣向」によってきまるはずのものだ」と主張しているのだ。

簡単に言ってしまえば、実用的な文章は口語体という日常語で、芸術表現の文章は文語体という芸術語で――子規はそう言いたかったんじゃないかと思う。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

たとえば、これ、口語訳にしたら、これから始まる「平家物語」の壮麗なイメージが生まれてこない。ぶち壊しになってしまう。
やっぱりここは、とうとうと、流れるように、文語体の持つ独特のリズムで読まれなかったらダメなんじゃないだろうか。
だから安野さんも、自分の口語訳で「即興詩人」を読んだら、ぜひ鴎外の文語訳も読んでほしい。で、日本語の美しさに感動してほしい、と言っていた。

てなことを、ああだこうだと、楽しく1時間あまりしゃべったのだが、くわしいことは1月9日の深夜(10日の午前1時台)のNHK第1放送かFM放送でどうぞ。

それにしても、安野さんはお元気だなあ。







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