隠居のうふふふふ [ことばの元気学]
隠居大学が無事終わった
登場する客人もそうだけど、なにしろぼくもトシなんで、いつあの世に行くかわからない。
「無事」に終わったというのはそういうイミで、とにかくこれでまた雑煮が食えるなとほっとしている。
先月の坪内稔典さんも、最終回の安野光雅さんも、とても面白かった。
「三月の甘納豆のうふふふふ」
坪内さんといえばこれが代表句の一つだが、この句を作った当時、小学生だったお嬢さんが学校のお友だちと語らって、「このほうがいいんじゃないか」という改作をして、お父さんの稔典さんに見せたんだそうな。
「三月のひな人形のうふふふふ」
いいじゃない、とぼくらは一瞬、思っちゃうよね。ひな壇のお姫様が「うふふふ」としのび笑いをしているなんて、かわいいじゃない。
でも、これじゃだめなの。当たり前で、面白くないんだって。
「甘納豆」が笑うからおかしい。意表をつく、というか、そういう意外性がなくちゃ面白くないんだって。
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)だって、柿と鐘の取り合わせという意外性が面白い。「柿食えば腹が鳴るなり」じゃだめなんだよね。
ま、この話は坪内さんの著書にも載っているけど、じかに話を聞くと、とてもよくわかる。
それにしても、坪内さんのこの句、
「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」
これはまだわかんないなあ。
ま、勝手に解釈すればいいし、むりに解釈しなくてもいいんだよね。
というわけで、「究極の言葉遊び」ともいえる「俳句」のシンズイを、敬愛する坪内宗匠は、面白おかしくしゃべってくれたのでした。
それにしても宗匠の朝食はあんぱんときまっているそうですが、そのあんぱんが「つぶあん」とは。
このつづき、安野光雅編は、また明日。(か、あさって)(か、しあさって)(か、やのあさって)。
(注・ぼくの育った東京の下町では、あさっての翌々日をヤノアサッテと言いますが、おたくではどう?)
登場する客人もそうだけど、なにしろぼくもトシなんで、いつあの世に行くかわからない。
「無事」に終わったというのはそういうイミで、とにかくこれでまた雑煮が食えるなとほっとしている。
先月の坪内稔典さんも、最終回の安野光雅さんも、とても面白かった。
「三月の甘納豆のうふふふふ」
坪内さんといえばこれが代表句の一つだが、この句を作った当時、小学生だったお嬢さんが学校のお友だちと語らって、「このほうがいいんじゃないか」という改作をして、お父さんの稔典さんに見せたんだそうな。
「三月のひな人形のうふふふふ」
いいじゃない、とぼくらは一瞬、思っちゃうよね。ひな壇のお姫様が「うふふふ」としのび笑いをしているなんて、かわいいじゃない。
でも、これじゃだめなの。当たり前で、面白くないんだって。
「甘納豆」が笑うからおかしい。意表をつく、というか、そういう意外性がなくちゃ面白くないんだって。
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)だって、柿と鐘の取り合わせという意外性が面白い。「柿食えば腹が鳴るなり」じゃだめなんだよね。
ま、この話は坪内さんの著書にも載っているけど、じかに話を聞くと、とてもよくわかる。
それにしても、坪内さんのこの句、
「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」
これはまだわかんないなあ。
ま、勝手に解釈すればいいし、むりに解釈しなくてもいいんだよね。
というわけで、「究極の言葉遊び」ともいえる「俳句」のシンズイを、敬愛する坪内宗匠は、面白おかしくしゃべってくれたのでした。
それにしても宗匠の朝食はあんぱんときまっているそうですが、そのあんぱんが「つぶあん」とは。
このつづき、安野光雅編は、また明日。(か、あさって)(か、しあさって)(か、やのあさって)。
(注・ぼくの育った東京の下町では、あさっての翌々日をヤノアサッテと言いますが、おたくではどう?)