SSブログ

デコボコ頭の告白 [ことばの元気学]

iPadで、電子ブックを読んでみた。
「坊ちゃん」はいいが、「学問のすすめ」はいけない。
いけないというか、頭に入ってこない。
ストーリーを追うのにはいいが、考えるのには向いていないみたいだ。

若いころに読んだ「学問のすすめ」は、活版印刷だった。
いまどきの人は「活版印刷」なんて知らないだろうが、鉛でつくった活字を組んで、それにインクをつけて、紙に押し付けて印刷する。ま、ハンコを押すみたいなもんだ。

0活字.jpg

こうすると、鉛の字を押しつけるから、紙が少しへこむ。ま、それほどひどくへこむわけじゃないが、とにかく、紙に字が刻み込まれるって感じだ。

ぼくが出版の世界に入った1950年代は、出版物はたいてい活版印刷だった。
が、60年代になると平版印刷が現れ、70年代にはそれが主流になり、80年代になるとほとんどの印刷物が平版になった。
平版(オフセット)印刷は、鉛の活字の代わりに印画紙に文字を印字し、感光液を塗った薄いアルミ板にそれを焼き付けて、焼き付けた部分だけにインクがつくという方式で印刷する。そう、活版印刷みたいなデコボコがまったくない印刷方式だ。

ぼくなどは、どうも平版はのっぺりした色男みたいで好きになれず、79年に創刊した「広告批評」も活版ではじめたのだが、時代の流れには逆らえず、数年後には平版に変えざるをえなくなった。

ところが、である。
なんとか色男とのつきあいにも慣れてきたと思ったら、こんどは電子ブックの登場だ。のっぺりした色男どころか、ドきざなイケメン野郎みたいで、ますます好きになれないやつが登場してきた。
でもなあ、やっぱり時代の流れには逆らえないよなあ。
レコードだって、SPからLPへ、LPからステレオへ、ステレオからCDへと、時代の流れに逆らえずに、泣く泣くぼくは買いかえてきたしなあ。
というわけで、おそるおそる電子ブックを読み始めた結果が、最初に言った「ストーリーものにはいいが、考えるものには向いていない」という感想なのである。

だが、そう思ったのは、なぜか。

たぶんそれは、印刷(あるいは印字)形式の違いである。
活版で印刷された文字は、紙をへこませるだけでなく、脳をもへこませる。文章の1字1字が、脳の表面に刻み込まれる。ぼくの頭がかつてデコボコだったのは、そのせいだ。

ところが、だ。平版の文字は、脳の表面をツルッとなでるだけで、脳にデコボコの痕跡を残さない。だから、平版の登場以降「岩波文庫」は売れなくなり、ストーリーものが本の主流になってしまった。思えばぼくも、そのころから考える本をあまり読まなくなり、デコボコ頭がツルッとしてきて、毛がどんどん抜けてきたように思う。

そこへ今度は、なんと光の文字である。こういう文字は、脳に「考える」ことなんか要求しない。光陰矢のごとし。へぼの考え休むに似たり。さっさと読んでさっさと寝ろ。

これではいけない。「考える本」がこれではなくなってしまう。
考える本とは、読むのに手間のかかる本だ。中身もそうだが、本のツクリからして、手間をかけなきゃいけない。
たとえば、昔の本の中には、フランス装などといって、本の上部や横の部分が袋とじのように切れていないものもあった。それをペーパーナイフでざくざく切りながら読んでいく。そういう本の持つ本来の意味を、忘れてはいけないのだ。グーテンベルグさんに申し訳ないのだ。

ここまで読んで、やっとぼくの言いたいことがわかってくれたと思う。
そう、先日上梓した佐藤可士和さんとぼくの共著「可士和式」が、なぜ手間のかかるフランス装なのか。
それを言いたかったために、さっきからとてもムリをしているのだ。
「なんでこの本、上が切ってないの?」とか「これ、不良品じゃないの?」という若者の声に、なんとしても答えたかったのである。

でもなあ、と、すでに「可士和式」を買ってくれた人は思うに違いない。
「あの本、中身は平版印刷じゃないの?」
そうなのだ。時代の流れには逆らえない。だって、いまどき活版印刷ができる印刷屋さんなんてほとんどないし、値段もうんと高くなってしまう。
で、せめてもの抵抗で、表紙だけは活版印刷にして、損をしょいこむことにしたのだった。ああ。

0可1.jpg



nice!(9) 
共通テーマ:アート

nice! 9

即興画人ことばの距離 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。