子曰く [ことばの元気学]
先進の礼楽におけるは野人也。後進の礼楽におけるは君子也。如用之、則ち吾は先進に従わん。
「先進的な礼儀や音楽は野人的であり、後進的な礼儀や音楽は君子のそれだ。もしどちらかをとるとなったら、私は先進のほうをとる」と孔子は言ったそうです。
ぼくは「論語」なんて読んでいませんが、尊敬する音楽評論家の吉田秀和さんがそう書いていましたから、間違いないでしょう。
君子の総元締みたいな孔子のことだから、温厚な君子のほうをとると思ったら、なんと、新奇さをねらう野人のほうをとった。ちょっとびっくりですよね。つまり孔子は、つぶあん派だったというわけです。
実はいま、吉田秀和さんの「モーツァルトをきく」(ちくま文庫・近刊)の解説を書いているところなんですが、モーツアルトは、間違いなく「先進」であり「野人」ですね。映画の「アマデウス」に出てくるサリエリなんかの音楽が「後進=君子」ってことになるんでしょう。ま、いまから見ると、モーちゃんの音楽は洗練の極致に思えるけど、当時としては破壊的であり、革命的であり、野性的だった。
ベートーヴェンもそうですね。ま、モーちゃんにせよ、ベトちゃんにせよ、現れたときはみんな革命児だった。つぶあんだったってことでしょうか。その荒々しいまでのエネルギーがなかったら、革命なんてできない。
モーツアルトたちのオペラは、オペレッタなどを経て、ミュージカルに受け継がれていく。
となると、どうしても思い浮かぶのが、フレッド・アステア(右)とジーン・ケリー(左)です。
二人とも、ダンスの名手であることはいうまでもありませんが、そのダンスぶりはぜんぜん違うというか、対照的でした。簡単にいってしまえば、「洗練のアステア・野性のケリー」。
どっちも天才ですが、アステアがいたから、ケリーが出た。ケリーが出てくることで、アステアが光る。洗練と野性の間には、そういう関係があるようです。
「モンティパイソン」と「ジャッカス」にも、同じことがいえそうです。
「モンティパイソン」の笑いは、100%イギリスのものだと思う。とことんバカをやるんだけど、その裏側に、知的で洗練されたセンスが見え隠れする。攻撃的で破壊的にみえるんだけど、つねにユーモアの匂いがするから、安心して笑えるところがあるんですね。
それに対して、「ジャッカス」は、いかにもアメリカ製です。とことん攻撃的で、破滅的で、すべての常識をぶちこわす破壊音と塵芥の中から生まれてくる笑いといえばいいか。「モンティパイソン」の笑いが微笑や苦笑なら、「ジャッカス」の笑いは哄笑であり爆笑といった感じがします。(不快で笑えないという人もいる)
ここにも、洗練と野性の違いが見られますが、前から繰り返しいっているように、世の中の流行はこの二つの間を振り子のように揺れながら進んでいくようです。
で、いまは、野性派が優勢の時代。だから、うちの近くのコンビニには、あんぱんはつぶあんのものしか置いてないのです。くやしい。
「先進的な礼儀や音楽は野人的であり、後進的な礼儀や音楽は君子のそれだ。もしどちらかをとるとなったら、私は先進のほうをとる」と孔子は言ったそうです。
ぼくは「論語」なんて読んでいませんが、尊敬する音楽評論家の吉田秀和さんがそう書いていましたから、間違いないでしょう。
君子の総元締みたいな孔子のことだから、温厚な君子のほうをとると思ったら、なんと、新奇さをねらう野人のほうをとった。ちょっとびっくりですよね。つまり孔子は、つぶあん派だったというわけです。
実はいま、吉田秀和さんの「モーツァルトをきく」(ちくま文庫・近刊)の解説を書いているところなんですが、モーツアルトは、間違いなく「先進」であり「野人」ですね。映画の「アマデウス」に出てくるサリエリなんかの音楽が「後進=君子」ってことになるんでしょう。ま、いまから見ると、モーちゃんの音楽は洗練の極致に思えるけど、当時としては破壊的であり、革命的であり、野性的だった。
ベートーヴェンもそうですね。ま、モーちゃんにせよ、ベトちゃんにせよ、現れたときはみんな革命児だった。つぶあんだったってことでしょうか。その荒々しいまでのエネルギーがなかったら、革命なんてできない。
モーツアルトたちのオペラは、オペレッタなどを経て、ミュージカルに受け継がれていく。
となると、どうしても思い浮かぶのが、フレッド・アステア(右)とジーン・ケリー(左)です。
二人とも、ダンスの名手であることはいうまでもありませんが、そのダンスぶりはぜんぜん違うというか、対照的でした。簡単にいってしまえば、「洗練のアステア・野性のケリー」。
どっちも天才ですが、アステアがいたから、ケリーが出た。ケリーが出てくることで、アステアが光る。洗練と野性の間には、そういう関係があるようです。
「モンティパイソン」と「ジャッカス」にも、同じことがいえそうです。
「モンティパイソン」の笑いは、100%イギリスのものだと思う。とことんバカをやるんだけど、その裏側に、知的で洗練されたセンスが見え隠れする。攻撃的で破壊的にみえるんだけど、つねにユーモアの匂いがするから、安心して笑えるところがあるんですね。
それに対して、「ジャッカス」は、いかにもアメリカ製です。とことん攻撃的で、破滅的で、すべての常識をぶちこわす破壊音と塵芥の中から生まれてくる笑いといえばいいか。「モンティパイソン」の笑いが微笑や苦笑なら、「ジャッカス」の笑いは哄笑であり爆笑といった感じがします。(不快で笑えないという人もいる)
ここにも、洗練と野性の違いが見られますが、前から繰り返しいっているように、世の中の流行はこの二つの間を振り子のように揺れながら進んでいくようです。
で、いまは、野性派が優勢の時代。だから、うちの近くのコンビニには、あんぱんはつぶあんのものしか置いてないのです。くやしい。
「モンティパイソン」、大昔にテレビ東京かなんかで放送してましたよね。確か片目に眼帯をしたタモリが司会をしてませんでしたか。今までテレビで見てきたギャグの世界とは全く違う世界でした。そんなこと、と思えるような一見くだらないことを、いい大人が大真面目にやっている。
逆にそこに洗練されたものを感じました。
学生時代のイギリス人の友達のユーモアがやっぱりそうでした。ぼくらのユーモア観ともまたちがって独特なものがありますね。
by gillman (2008-06-24 18:20)
先進、洗練は両極でしたか。。。
なるほど、
先進は、野生が必要で、大きなエネルギーをかけ、
新しいものを創り出す。
洗練には、その野生が切り開いた道を、
多くの人がとおれるように、きれいに、整えて行く。
先進、洗練をいっぺんに目指す企業って多いんですよね。
うちの会社もですが、、、。
言葉って、よく考えて最初に創った人がいたのでしょうが、
漫然と使ってしまうと、大変なことになりますね。
ありがとうございます。
by とくさん (2008-06-25 01:59)
クラシックも好きだけど、ロックをはじめとしたポップスも好きです。
戦後、世界的にヒットしたポップスといえば、
ほとんどがアメリカとイギリスの両英語圏ですよね。
たかだか60年ほどの歴史しかないですが、面白いことに
アメリカで停滞すると、イギリスで新たな流れが生まれ、
逆にイギリスで停滞すると、今度はアメリカで・・・という風に
まるでシーソーのようにムーブメントが繰り返されています。
細かいことはともかく、それらの中には伝統と先進が融合した
ものもあって、なかなか興味深いです。
by あかみどり (2008-06-25 09:59)
こんにちは。「先進と洗練」はどんな分野でも興味をそそるテーマですよね。
美内すずえさんの『ガラスの仮面』なんてまさにど真ん中にこのテーマを据えていると思います(収拾がつかなくなってる感じもありますが…)。北島マヤと姫川亜弓。
Jポップでいえば、中島みゆきと松任谷由美、吉田拓郎と井上陽水、松田聖子と中森明菜、などもそうでしょうか。
先進が洗練を目指し、洗練が先進を模索することで、時として入れ替わることがあるのも面白いですよね。
手塚治虫さんは常に先進であろうとした(けれど際立って洗練されていた)漫画家だと思います。ディズニーに対しては洗練であり、日本漫画界では先進。偉人ですね。
by rio (2008-06-26 07:12)
モンティパイソン、懐かしいです
あれはまさにイギリスの洗練されたコメディですね
騎士が森の巨人に、森の木を切れ!この鰊で!って
あのわけのわからないギャグ?が好きです
結局盆栽をもっていって通してもらうんですね。
by ももず (2008-06-28 00:56)
「gillman」さん。
同じ人種なのに、アメリカとイギリスでは笑いの質がまったく違う。さしずめ、イギリスが京都なら、アメリカは千住ってとこですかね。ぼくはイギリス大好き人間なんですが、これは自分にないものへのあこがれかもしれません。
「とくさん」さん。
創業時のソニーやナショナルは、まさに先進のかたまりみたいな集団でした。でも、いまは洗練派の一員ですね。
「あかみどり」さん。
おっしゃる通りです。テレビCMの分野でも、はじめはアメリカが世界を圧倒していましたが、それがマンネリの袋小路に入ってしまって、ここ10年ほどはイギリス勢ががんばっています。日本で言うと、関東勢と関西勢の関係に近いんでしょうか。
「rio」さん。
拓郎と陽水って、たしかにそうですね。ユーミンとみゆきもまったく同感です。こういう関係があるほうが、お互いに成長するみたいですね。
「ももず」さん。
「モンティパイソン」が好きでした。ああいうグループが出てくるのは一種の奇跡ですね。こんどビデオを見直してみて、あらためてそう感じました。
by あまの (2008-06-29 09:29)
モンティ・パイソンは「手旗信号版・嵐が丘」と「シリー・ウォーク」が印象に残っています。
日本では放映もビデオ化もされていない作品の中に、医者と看護婦が酒を飲んで騒ぎながら、リハビリと称して松葉杖の患者たちを鞭で脅し、無理矢理歩かせるというのがあるそうです。
いつか手に入れたいものです。
アステアは本当に「美しい」ですよね。
エリノア・パウエルと共演したときは過激で、ジンジャー・ロジャーズとのときは優雅で、どっちも美しかった。
だからこそ「タワーリング・インフェルノ」のケチな詐欺師役が味を出していたし、ラストでOJシンプソン(!)から猫を手渡され、命を落とした女性の名を叫びながら探す、あの哀しさが光っていました。
「少しだけ壊しすぎ」というバランスが、重要なのだと思います。
ジーン・ケリーだからそれができたわけで、あの時代にヒップホップ系がいきなり出てきたら、誰も評価しなかったでしょう。
若い連中がめちゃくちゃな日本語を多用する現代、天野さんのような腕白じじぃ(はっはっ)の、きれいな日本語と時におちゃめな論旨を、これからも拝読させていただきたく存じます。
by Seineux (2008-06-29 10:54)
フレッド・アステア!洗練という言葉しか当てはまらないと思う、大好きなスターです。Seineuxさんのおっしゃる通り、ジンジャー・ロジャースとの共演作品はどれも優雅でした。けれど、アステアが完璧を求めすぎて、彼女はとても大変な思いをしたらしいですね。
決してハンサムガイではないのですが、私にとっての永遠のプリンスはアステアです。あの洗練された優雅でため息がでるステップ。素晴らしい!!けれど、顔を真っ黒に塗ってタップを踊るなどもしていたアステア。当時はセンセーショナルだったかも知れません。物事を極めるとおのずと洗練されていくのでしょうか。ジーン・ケリーも今の時代から見れば洗練の極みのような気もします。
私もアメリカが大好きで、10年ほど前は何度も旅をしました。でも今はさほど惹かれません。映画やドラマは今でもとても面白いものがあります。面白いというより、夢を見せてくれるというか…。話が逸れました。ごめんなさい。
by REI (2008-07-09 17:18)