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つづき④ [ことばの元気学]

パン焼き.jpg


そのころ、ぼくは、どんな部屋で、どんな身なりをして、どんな顔で、ラジオを聞いていたんだろう。
そう、上の写真のような感じで聞いていたのだ。
この写真の兄弟より、ぼくとぼくの兄はちょっと年上だが、ぼくらもこの兄弟と同じようなことをしながら、ラジオを聞いていた。
ところで、この兄弟は何をしているのか。パンを焼いているのだ。
とにかく食べるものがない。で、だれが発明したのか、小麦粉さえあれば、家で簡単にパンを作れる方法が考案され、それがあっというまに世間に広まった。

①弁当箱くらいの木の箱を用意する。
②箱の内側の長いほうの側面(2面)に、側面の大きさに合わせて切った銅版2枚をおく。
③電灯線からとったコードの端をプラスとマイナスに分け、片方の銅板にプラスを、もう一方の銅板にマイナスをつなぐ。
④小麦粉に重曹を入れ、水でよく練って箱に入れる。
⑤電気のスイッチを入れれば、2枚の銅板の間に電流が流れ、水分がなくなると自然に電流が切れて、パンができあがる。

いま考えたら、こわいことをやったものだと思う。焼けたパンの銅板に接していた面には毒性のある緑青が付着するので、緑色になっている部分を薄く切り捨ててから食べたのだが、考えたらこれもかなりこわい。
が、ぼくはちょいちょい、兄と一緒にこのパン焼きをした。ちっともおいしくはなかったが、なんでも腹に入りさえすれば、それだけでうれしかった。(たいへん危険ですから、絶対にやらないでください)

そんなとき、ラジオからは、英会話を学ぶ番組とか、戦地から復員してくる部隊の名前を知らせる番組とか、いろんなものが流れていた。
軍隊に召集されてビルマ(ミャンマー)で戦っていた父や、フィリピンで戦っていた叔父の部隊は、いつ帰ってくるのか。それよりも、生きているのかどうか。
「復員だより」の時間は、母も兄も、ひとことも聞き漏らすまいと、全身を耳にしてラジオに聞き入っていた。
さいわい、父は昭和21年の夏にひょっこり帰ってきたが、叔父は戦死ということで骨になって帰ってきた。母によると、祖母の家で遺骨の箱を開けたら、石ころがひとつ入っていたという)

新しい年がきても、街はまだ焼け野原だった。ところどころに、家ともいえないようなあばら家が建っていたが、ぼくの家があった千住の焼け跡からも、美しい富士山が見えた。視界をさえぎるものが何もなかったのだ。

が、街は焼け野原だったが、闇市には活気があった。そして、ラジオにも活気があった。
敗戦のおかげで自由になったものの、さて、「自由なラジオ」とはどういうものか。
NHKの人たちは、それをけんめいに模索していたのだろう。

そんな暗中模索の空気が、当時の放送番組表には映りこんでいる。
昭和21(1946)年の1月29日の放送番組表で、それを見てみよう。
 
 6.00 報道
 6.15 農家の時間 
      ニュースとメモ・天気予報・農園の冬の手入れ
 6.30 基礎英語講座
 6.45 体操
 7.00 報道 天気予報
 7.15 音楽
 7.30 私達の言葉
 7.45 フランス革命と女性 新居格
 8.00 音楽
 8.15 家庭メモ
 8.30 邦楽
 9.00 気象通報
 9.15 音楽 
10.00 幼児の時間 うたのおけいこ・赤ちやん 松田トシ
10.15 唱歌
10.30 読書案内
10.45 音楽
11.00 学校放送「四年生の時間」
      物語 偉人の少年時代・徳富蘆花 加藤嘉
11.30 音楽
11.45 体操
 0.00 報道 天気予報
 0.15 管弦楽
      一、寒月 弘田龍太郎作曲
      二、吹雪の舞 藤井弘也作曲
      ミクニ管弦楽団 指揮・大和田由松
 0.30 パイプオルガン演奏―日本橋三越より中継―木岡梅子
      (ヘンデルほかの作品)
 1.00 婦人の時間
      一、時局随想 吉田玉の緒
      二、春遠からじ サトウ・ハチロー作 榎本健一・飯田蝶子
 1.40 私達の言葉
 2.00 世界を旅して ロサンジエルスの思ひ出(一) 平川よね子
 2.15 室内楽
      (コレリ ヴイヴアルデイ モーツアルトの作品)
 3.00 報道
 3.30 週間録音
      ヴアイオリン独奏 アレキサンドル・モギレフスキー
      ピアノ伴奏 リデイア・シヤピロ
      スペイン現代音楽祭
      (フアリヤ、グラナドス、アルベニスの作品)
 4.00 療養の友
      落語二題
      一、お好み床 三遊亭歌笑
      二、八百屋お七 柳亭痴楽
 5,00 報道
 5.30 仲よしクラブ
      シンブン リンカーン チエ袋
 6.00 映画からの音楽
 6.30 実用英語会話 杉山ハリス
 6.45 復員だより
      天気予報 番組予告
 7.00 報道
 7.15 労働ニュース
      軍事裁判報告
 7.30 お好み演芸会
      浪花節 春姿塩原太助 寿々木米若
 8.00 世界連邦の建設 尾崎行雄
 8.30 邦楽二題
      一、端唄 初春、三下がり、梅と松
      二、小唄 あけぼの、雪はしんしん、雪のあした
      歌の新聞
 9.00 地方工場代表者会議報告
 9.15 解説
10.00 気象通報 天気予報 番組予告
音楽 

(部分的に実際に放送されたものと部分的に違う場合もある。赤字はこの時期の空気をを反映したもの)

一見、豊富な内容である。が、GHQの目を意識して、非民主的と思われるようなもの、男尊女卑の匂いのあるもの、因習的な価値観を感じさせるようなものは、慎重に取り除かれている。音楽物も芸能物も、いわば当たり障りのないものばかりだ。
が、この中でちょっと注意してほしいのは、夜の9時の前に、時刻の指定も出演者の紹介もないままに、「歌の新聞」という番組名が入っていることだ。
実は、この「歌の新聞」が、翌昭和22(1947)年10月5日から始まる「日曜娯楽版」の前身である。

(資料は、NHK、日本放送出版協会編「昭和放送史」、毎日新聞社「戦後50年」ほか)      

お詫び
少し前から、とつぜん戦後のラジオの話になったりして、ごめんなさい。実はいま、三木鶏郎さんの仕事をラジオジャーナリズムとしてとらえる書き物のための下調べをしていて」、そのメモみたいなものを書いてしまいました。このテーマはいずれまとめてみようと思っていますが、ブログはまた次回から、もとの雑文に戻ります。

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シモの娘

おじいちゃんが開いていた松山の八百屋さんでは、いつもラジオ放送が流れていました。
落語が多かったです。
好きだったんだろうなぁ・・・おじいちゃんもおばあちゃんも、母も・・・
お店しながら聞こえてく落語にみんなで笑っていました。
昭和40年ごろです。
一度、ラジオの放送局に連れて行かれて、
そこで母がおばあさんの声を出して、母よりも年上の方が子供の声を出して、おもちゃやのCMを録音したことがありました。
声ってすごい・・・と初めて思ったときでした。
私が一番ラジオに近かった時期かもしれません。


パンの作り方・・・娘の夏休みの自由課題にしようと思いましたが、
大変危険なのですね。。。残念です。


by シモの娘 (2008-08-07 07:43) 

根本久子

天野さん、こんにちは。

私はもともと本屋さんのせいか、このところの戦後のラジオの話を天野さんが紙媒体で発表しないのはもったいないもったいないもったいない!と身をよじっていたのですが、書き物の下調べだったのですね。あー、ほっとしました。しかも「下調べ」がすでにこんなに面白いとなると、その書き物が待ち遠しいです。私は日々インターネットを活用しているので、インターネットが印刷物より劣ると言うつもりはないのですが、説明できない愛着を印刷物には感じてしまうのです。

ところで、私には苦い挫折の経験があります。ラジオだったかテレビだったか「基礎英語講座」「続基礎英語講座」、テレビの「英会話講座」「イタリア語会話」、テキストやテープはしっかり買い続けたのに、実際に読んだり見たり聞いたり学んだりできたためしがありません。もちろんNHKさんのせいではなく、私の根気のなさのせいですが。
by 根本久子 (2008-08-07 16:12) 

根本久子

再びの投稿で失礼します。

インターネットのおかげで、日本にいなくても私が天野さんのこんなに面白い記事を見ることができていることに気付きました。前言撤回します・・・・。インターネットさん、ごめんなさい。でもやっぱり、触ったり眺めたりして楽しめる本の方が好きなんですけどねえ。

by 根本久子 (2008-08-07 16:17) 

rio

連載を拝読して、媒体(メディア)という存在の意義に改めて思いをめぐらせています。

「世界連邦の建設 尾崎行雄」なんて、今の時代だからこそ聞いてみたい番組ですね。

地べたに頭をこすりつけて泣いた経験もありませんし、危険な思いをしてパンを焼いたこともありません。ラジオは受験勉強のときか、車に乗っているときに聞く程度でした。

そんな時代に生きていることを心底うれしいと思っているのですが、同時に、「媒体はあくまで媒体であって、何を伝達するかは私たち次第」という意識が、当時の人と比べてとても薄くなっているのではないかと想像しています。
by rio (2008-08-08 03:36) 

とくさん

宮武外骨さんの記事が愛媛新聞に載ってました。

父の一周忌で、松山に帰省しております。
モノクロ写真を見ながら、父とその時代を感じております。
父は戦争に行くと覚悟していたが、
その前に終戦になり、海軍兵学校が憧れだった世代です。
捕虜の人が脱走したとかで、捜索?していて、
玉音放送は、生で聞けなかったようです。

GHQの影響は、いつまで続いたのだろう、
今でもGHQの目を意識しているのかしら、と思うほど、
当たり障りのない番組が多いですね。


by とくさん (2008-08-10 05:35) 

あまの

「シモの娘」さん。
八百屋さんの店先のラジオから落語が流れてくる。いい風景ですね。
いま思うと、昭和はいまよりはいい時代だった気がしてきます。

「根本久子」さん。
電話でなければ言えないことがあるように、手紙でなければ言えないこともある。インターネットの便利さに浸れば浸るほど、本のよさがあかってきますね。でも、本を書くのはしんどい。

「rio」さん。
「媒体に振り回されず、媒体を振り回す」といきたいところですが、現実は振り回されっぱなし。腹立ちまぎれに、携帯ラジオを振り回しています。

「とくさん」さん。
GHQは、まだ見える存在だったからいいんです。いまの「権力」は、目に見えないところがこわい。福田首相は情けないし、石原都知事も威張っているだけで、別にこわくはないし。だからこわいんですね。
by あまの (2008-08-11 01:31) 

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