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たったひとつの正解はない。 [あんこ学]

昔、ヴィヴァルディの「四季」が、やたらに売れた時期がありました。クラシックレコードの売り上げベストテンのトップを、長い間占めつづけていた。なぜ、「四季」がそんなに売れるのか。当時、そのワケを、ぼくの好きな作曲家の林光さんが、こんなふうに言っていたのをおぼえています。
「音楽の聴き方に、たったひとつの正解はない。でもね、ベートーヴェンの音楽なんかだと、まるでたったひとつの正解があるように言う人がいる。この曲は、苦悩を通しての歓喜を表現してるとかね。解釈がうるさい。その点、ヴィヴァルディは、というより、バロック音楽は、どう聴こうと自由なわけね。勝手なわけ。それが、たったひとつの正解を押し付けられることにうんざりしている現代人に素直にアピールしたんじゃないだろうか」
林さんはすごい名文家だから、こんな言い方で言ったわけじゃないけれど、ま、意味は、ざっとこんなことだったと思います。で、この林さんの言葉は、当時のぼくに電撃的にひびきました。そう、ビリビリッときたわけ。そうだ、音楽に限らない、世の中のことすべて、たったひとつの正解なんかないんだ。正解は、そのモンダイを考える人の数だけあるんだ。そうだそうだ、モンクあっか、なんて思ったわけです。
いや、そんなことはない、数学のモンダイなんかは、正解がひとつじゃなきゃ困るだろう、と思うかも知れない。だが、違う。
昔、セブンイレブンのCMに、「駅からまっすぐ帰ると200メートル、セブンイレブンに寄って帰ると300メートル、でも、私はどうしても寄り道してしまう」というのがあって、その画面に家と駅とセブンイレブンを結ぶ直角三角形の図がかかれていたのがありました。ま、なんてことはないCMだとぼくは思っていたんですが、世の中にはうれしい閑人がいっぱいいて、「あれはおかしい」という疑問の手紙が、「CM天気図」に殺到したんですね。「直角三角形の斜辺が200メートルで、他の2辺の和が300メートルなんてことは、数学的常識としてありえない」というわけです。ところが、「これはもうピタゴラスさんに聞くしかないだろう」とぼくが「CM天気図」に書いたら、さっそくピタゴラスさん、じゃない、数学専攻の大学院生で岩瀬順一さんという人から手紙がきた。それによると、「あの三角形は平面上では成立しないが、計算の結果、半径191メートルの球状をした小惑星を想定し、その北緯45度東経0度に駅が、北緯45度東経90度に家が、そして北極点にセブンイレブンがあれば成立する」というんですね。つまり、間違ってはいない、というわけです。
おいおいおい、そんなちいさな星の上に電車が通るかよとか、そんなところにセブンイレブンが出店すると思うか、なんて言う人に災いあれ。ぼくが感動したのは、あの小うるさい数学でさえ、正解はひとつではない、考え方によっていろいろあるんだというのを知ったことでした。
というわけで、以来ぼくは、何事にせよ、たったひとつの正解なんてものはない、と信じてきました。だから、アンパンマンはつぶあんかこしあんか、というモンダイにも、実は正解はひとつではない、ということになるんですね。どうしてもつぶあんであってほしいと思うひとはつぶあん、こしあんじゃなきゃわたしゃいやだというひとにはこしあんなのです。東雲のミニーさん、これでいいですか。よかないよね。
さて、次回はいよいよ、「みっともない」と「あんこ」になんの関係がアンだという疑問点に踏み込いくつもりですが、はたして、どんな関係がアンでしょうか。一緒に考えてください。


これは、渋皮つき栗納豆です。でっかいです。つくったのは足立区の丸和製菓です。足立区はぼくの生まれた所です。この渋皮つき栗納豆みたいな所です。隅田川のほとりにあるので、区役所の人は「いまやこのあたりもウオーターフロントです」なんていってますが、実態は「川っぺり」です。
ウオーターフロントなんてばかな言葉より、ぼくは川っぺりのほうが豊かな感じがして好きです。


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みっともなくない? [あんこ学]

通りに面したところが総ガラス張りになっている美容室の中で、美容師さんに髪をいじられている自分の姿を通行人に見られても恥ずかしくないですか。
百貨店の1階の化粧品売り場で、化粧部員の人にメイクをされている自分の姿を、店内のお客に見られてもいやだとは思いませんか。
といったようなことを朝日新聞の「CM天気図」に書いたら、あちこちから異論反論オブジェクションをもらった。
「あんたは古い」「そんなのぜんぜん気にしない」「どうして恥ずかしいんですか」「ばかか、お前は」といったぐあいです。
でもなあ、そうかなあ、と、ぼくとしては釈然としない。じゃあ、電車の中で化粧している人も許されるってことかなあ。そうかなあ。
で、その原稿では、いまの日本からは、「もったいない」という言葉だけじゃない、「みっともない」という言葉も消えてしまったんじゃないか、と書いたのですが、あなたはこのモンダイをどう思うか。ぜひ意見を聞かせてほしいのです。
それとあんこと、いったいなんの関係があるのだ、とぼくも思うのだが、実はあるんだな、これが。と思うんだな、ぼくは。
ま、その関係は次回までに考えておくとして、きょうは仕事場にお客さんが何人かきて、お菓子をたくさんいただいた。写真でおすそわけをすると、京都の鶴屋吉信の和菓子、東京新宿の追分だんご、それと、ウエストのシュークリームである。(あ、そうそう、この「~である」と終わる言文一致の文体は尾崎紅葉の発明らしい。ちなみに、「~だ」で終わる「だ体」は二葉亭四迷、「~です」の「です体」は山田美妙が家元だそうです。家元だそうだ。いや、家元だそうである。
さて、お菓子のほうはどれもおいしいが、ウエストのシュークリームの大きさ(直径8センチ)とクリームの量の多さには、いつものことながら身ぶるいするような感動をおぼえる。このくらい、あんこがびっしり入ったあんぱんを、食べてみたいものだ。ものです。いや、ものである。もちろん、こしあんで。


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紅葉はつぶあんだった。 [あんこ学]


もみじまんじゅうはこしあんだが、紅葉のまんじゅうはつぶあんだった。
11月20日にもらった「ひゃくみ」さんのコメントが、ずっと頭にこびりついている。
あの尾崎紅葉が、自分が死んだら「京橋銀座菊の家に注文して米饅頭に紅葉の印を押したのを使うといい。ただし、あんはつぶあんで、折などは気取らないこと」と、言い残したというのだ。
で、「ひゃくみ」さんは、だから紅葉はつぶあん派だったという。なるほど、とも思うし、わざわざこしあんのようないいものをふるまわなくてもいい、といっているところを見ると、本人はこしあん派だったんんじゃないか、という気もする。
が、あれこれ考えた末に、これは「ひゃくみ」さんのいうとおり、紅葉はつぶあん派だったと思うようになった。
なぜか。
①紅葉といえば、やはり「金色夜叉」である。あの小説は、どう考えても男本位で、お宮さんの切ない女心がうまく描けているとは思えない。それに、紅葉は写真でみてもかなりブリーフっぽいひとで、つまりはつぶあん派に違いない。それにしても、貫一お宮の物語も、熱海名所のお宮の松も、いまは知らない人のほうが多くなった。
②紅葉は小説だけでなく、俳句も多く残している。
「鍋焼の火をとろくして語るかな」
「モルヒネも利かで悲しき秋の夜や」
この人の句は、子規の写生句とは対照的に、熱い思いを吐露する感じのものが目だつ。子規の句がクールな句だとすれば、紅葉の句はホットだ。熱血浪漫派の俳句である。ちなみにこの二人は、同じ慶応3年に生まれ、同じように日本の近代文学の黎明期を切り開き、ともに30台なかばで夭折したという点で似通った二人だが、俳句の面ではまったく相容れない仲だったらしい。
この二人の俳句を見るかぎり、紅葉はつぶあん、子規はこしあんで、お互いに認め合わなかったのは当然だろう。
③というわけで、紅葉はつぶあんに違いないと、ぼくは思うのだが、ついでに言ってしまえば、紅葉は俳句より短歌の人だったんじゃないかという気がする。理由はまたゆっくりこじつけを考えてから書くことにするが、俳句の諧謔趣味はこしあんに通じ、短歌の浪漫趣味はつぶあんに似合うんじゃないかと思うのだ。
それにしても、「ひゃくみ」さん、面白い話をありがとう。
写真は、とらや椿山のおはぎ。もうすぐ北の窓。


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ちょっと通行どめ [あんこ学]


シンポシオンに参加してくれている閑人も、通りすがりの方も、ちょっとご協力を。(①か②のひとつだけでもけっこうです)
①アンパンマンのあんこは、こしあんか、つぶあんか。
 (「あんこと皮」さんがくれた情報によると、作者のやなせたかしさんがつぶあんだと言っていたらしいのですが、作者の意見にとらわれず、読者としてはどう思うか、を知りたいのです。「こし」とか「つぶ」だけでも、いそがしい人は「こ」とか「つ」だけでもいいから、教えてほしい。(ちなみに、現在は、アンパンマン=こしあん説は「こつぶちゃん」と「東雲のミッキー」の二人。アンパンマン=つぶあん説をとっているのは、「tami」さん、「あんこと皮」さん、「小豆姫」さん、「東雲のミニー」さんなど、数の上では圧倒しています)
②老舗のまんじゅうはこしあんが多いのですが、下記のまんじゅう以外に、ご郷里の名作や、個人的に「これぞまんじゅう」というのを知っていたら教えてほしい。で、それはつぶあんかこしあんかも。老舗に限りませんが、長く続いているのは、やはりうまいからだと思いますし、調べもつきやすいので、以下順不同で書いておきます。間違いがあったら、教えてね。
                     *
赤福 創業宝永4年・伊勢市 (こしあん)
柏屋の薄皮まんじゅう 創業嘉永5年・郡山市 (いろいろ)
山田屋まんじゅう 創業慶応3年・愛媛県 (こしあん)
大手まんぢゅう 創業天保8年・岡山市 (こしあん)
竹屋饅頭 文久年間・広島県庄原市 (こしあん)
大原松露饅頭 嘉永3年・唐津市 (こしあん)
竹林堂分家の酒まんじゅう 寛政2年・富山市 (こしあん)
根岸・花月堂の豆大福 創業明治4年・台東区 (こしあん)
もみじまんじゅう 広島・宮島 (いろいろ) 
壷屋のじょうよ饅頭 文京区本郷 (こしあん)
芳香堂の朴葉巻 長野県木曽郡 (こしあん)
塩味饅頭「播磨屋利休」 (こしあん)
仲屋の利休饅頭 浜田市 (?)
藤屋窓月堂の利休饅頭 伊勢市 (こしあん)

ということで、どうぞよろしく。あ、そうそう、東大には「東京大学饅頭」っていうのがあるんだって。
何あんかな。いもあんかな。くずあんかな。エイリあんかな。ユートピあんかな。レスビあんかな。エピキュリあんかな。学習指導あんかな。内閣不信任あんかな。(ばか、いいかげんにしなさい)


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気分を食べるひとたち [あんこ学]


つぶあん派の「ひなぐま」さんが、あんだんごでこしあんのよさがわかったというのはうれしい。あんだんごに感謝しよう。
「Shunjin」さんは、「こしあん」と「つぶあん」の間に「つぶしあん」があるんじゃないかという意見を寄せてくれたが、そもそも「つぶあん」なんてものはなくて、ぼくらが「つぶあん」といっているのは、本当は「つぶしあん」というのが正しい名前らしいよ。そりゃそうだよね、つぶしてなければ「あんこ」ではなくて「ゆであずき」だもんね。でもなあ、いまさら「つぶしあん」というのもシャクだしなあ、コンビニのあんぱんにも「粒あん」なんてわざわざ印刷してあるしなあ、ええい、ここはもうつぶあんでいくぞ! とひそかに決意するきょうの私でした。
ところで、どうしてひとつの物に、春は「ぼたもち」、夏は「夜船」、秋は「おはぎ」、冬は「北窓」と、わざわざ四つの名前をつけたのかというもんだいだが、おっと、また思い出したから忘れないうちにいっておくと、しばらく前にテレビ・ジャーナリストの人たちのシンポジューム(シンポシオンではない)があって、そのときぼくが聞いたところでは、筑紫さんと鳥越さんは、どちらもつぶあんだった。で、あっちのほうは、ふたりともトではなくてブだったように記憶しているが、それはともかく、つぶあんが好きな人は髪の毛が多い、ということがそのときわかったのだ、ぼくには。これは、もしかしたら、かなり偉大な発見ではあるまいか。
というわけで、春の「ぼたもち」はぼたんの季節、秋の「おはぎ」は萩の季節ということで一応わかるけれど、夏の「夜船」と冬の「北窓」というのはなんじゃらほい、と思う人が多いに違いないと思う。なにを隠そう、そういうぼくもちょっと前まで知らなかったのだが、ものの本によると、こういうことなんだそうな。
春と秋の彼岸には昔はお餅をついたものだが、夏と冬はあまりお餅はつかない。で、隣り近所にめいわくにならないように、トントンつくのではなく、静かにこねてお餅を作ったらしい。で、いつお餅をついたんだかわからない。いつ着いたんだかわからない。夜の船はいつ着いたんだかわからない、ということであるらしい。
北の窓も同じだ。北の窓からは月が見えない。つきが見えない。餅つきが見えない、ってわけ。こんなことを考え出すなんて、ほんと、昔は閑人が多かったんだなあと思う。
あ、それでまた思い出した。ぼくがこしあんの次に好きなのは小林一茶だが、ぼくの大好きな彼の句を教えちゃう。
  閑人や蚊が出た出たと触れ歩く
ああ、いいなあ、ぼくもこういう閑人になりたいなあ。一茶もこしあんだろうなあ。
だが、四つの名前の由来よりも重要なのは、なんのためにひとつの物に四つも名前をつけたかということだ。それはたぶん、ぼくらはものを食べるときに、物だけをたべているのではなく、物と一緒に気分をたべている、ということだろうと思う。まったく同じ物でも、「ぼたもち」を食べるのと「夜船」をたべるのでは気分が違う。その気分の違いを、ぼくらのご先祖さんは愉しんでいたんじゃないかと思うんだよね。
「おい。この北の窓を、横丁のご隠居さんのとこに持ってってやんなよ」なんていっちゃってさ。
「裏の後家さんは夜船が好きだねえ」なんて、こんちきしょう。
ビールの「一番搾り」が発売当初よく売れたのも、「一番搾り」っていう名前の力が大きかったんじゃないかな。ああ、おれいま一番搾り飲んでるんだ、っていう気分ね。中身はまったくおんなじでも、あれがもし「三番搾り」って名前だったら、ああは売れなかったと思う。
上の写真は、きょうの到来物、銀座あけぼのの栗むし羊かんでした。
それにしてもなあ、アンパンマンはこしあんかなあ。


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ちいさな違いを楽しむ [あんこ学]

これまでのシンポシオンで、人間の嗜好には次の2タイプのあることが明らかになった。
①つぶあん~ブリーフ~そば~ジーパン~野性
②こしあん~トランクス~うどん~スカート~洗練
おいおい、そんなこと、いつ明らかになったんだ、などど首をかしげてはいけない。これはあくまでも仮説だから、めくじらをたててはいけないのだ。
で、さらに仮説を前進させると、嗜好は指向に通じ、思考に至る。ブリーフをはいているときとトランクスをはいているときとでは、考え方そのものが変わってくるのである。
「tami」さんが言う通り、こしあんは作るのに手間がかかる。同様に、こしあん派の人間も、仲良くなるのに手間がかかる。つぶあん派の人間のように、あっさりしていない。ねっとりしている。それもこれも、実はこしあんのせいなのだ。
が、こしあん派に言わせれば、つぶあん派は屈折がなくてつまらないということになる。「みよしの大好きっ子」さんが教えてくれた松山市にある「みよしの」は、あんころじすとのぼくも好きな店だが、あの店のおばあさんは、実は若い美人だったころからぼくは知っているのだが、口では決していわないけれど、中身はかなりのこしあんだろうと、ぼくはにらんでいる。
ところで、今回は、二つの新しい難題にぶつかった。
その1は「あんこと皮」さんからのモンダイ。あんなにおいしいあんこなのに、なぜあんこだけでは食べずに、何かにくるんで食べるのか。うん。これはおおきいモンダイだ。たぶん、あんこだけだと、だれかがちょっとつまみ食いをしても、あとをちょこちょこっとなでておけばごまかせるからではないかと思うが、どんなものだろう。もしかしたらこれは、主役と脇役という重大な文化的問題に発展するかも知れない。ああ。こんな話をしていたら、急に舟和の「あんこ玉」と「くずざくら」がたべたくなってしまったぞ。
その2は、「東雲のミッキー」さんからのモンダイ。アンパンマンはつぶあんかこしあんか。奥さんがどうしても知りたいという。ふしぎな奥さんだ。ま、やなせたかしさんに聞けばすぐわかることだが、そんな安易な解決策をとらずに、うんうん考えてみたいと思う。
というわけで、今回は、まったく同じものなのに、春はぼたもち、夏は夜船、秋はおはぎ、冬は北窓と、四つの名前をつけてその違いを楽しんできたご先祖さんの美意識について考えたいとおもったのだが、年寄りはすぐ疲れるので、またにする。ああ、くずざくら、たべたい。


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つぶあんはジーパンだ。 [あんこ学]


「ひなぐま」さんと「ななこ」さんはつぶあん派、「まもりん」さんと「tami」さんは両方派。ま、やっぱり、つぶあんが優勢ですね。「きこり」さんがくれた貴重な情報によると、「つぶあんとこしあんのどっちが好きか」という調査をしたら、199人のうち、106人がつぶあん、93人がこしあんだったそうで、さもありなんとひとりうなづきました。なぜ、うなづいたか。それはこうです。
お汁粉に、つぶの入っているのと入っていないのがあるのは、みんな知ってますよね。で、つぶが入っているのを「田舎汁粉」といい、つぶのないのを「御膳汁粉」と呼ぶのも、ご承知と思う。それでわかるように、もともとは、こしあんは高級品、つぶあんは大衆品だったのです。そう、つぶあんは、よくいえば野性的、悪くいえば粗野なものだったといっていいでしょう。
が、世の中全体が貧しいときは、粗野なものは粗野でしかなかったけれど、世の中が豊かになってくると、粗野なものが逆にかっこいいものになったりする。そのいい例がジーパンですね。昔はあれは野良着というか作業着というか、貧乏くさいものでした。でも、いまは違う。なまじっかなブランドのスカートなんかはいているより、リーバイスのジーパンをはいているほうが、ずっとおしゃれになっている。ローウエストのジーパンの上から背中が見えているような、あんなおしゃれな格好も、昔だったら、「かわいそうに、あんなちんちくりんのシャツしか着せてもらえないのか」と、まわりの人たちからお金を恵んでもらえたものです。
それと同じ理由で、こしあんとつぶあんの間にも、イメージの逆転が起こったのではないか、いや、そうにきまっている、とぼくは考えているのです。つまり、つぶあんはジーパンなんですね。
だから、「まもりん」さんや「tami」さんが「どっちも好き」というのはいいけれど、せめてつぶあんを食べるときはジーパンを、こしあんをたべるときはスカートをはきましょう。
ちなみに、「ななこ」さんおすすめの麻布十番のたいやきは、ぼくもたべたことがありますが、たいやきはやっぱりつぶあんでなければいけない。歯に小豆の皮をくっつけて粗野に食べるのが、たいやきの正しい食べ方です。
(上の写真は、さっき、コンビニで見つけて買ってきたたいやきです。95円です。もちろん、つぶあんでした)


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これぞシンポシオン。 [あんこ学]


画家の横尾忠則さんは、根っからのつぶあん派である。なにしろ、田舎の道を歩いていたら、両側の畑が一面あんこだったという夢を見るくらいの甘党で、しかもそのあんこは、まぎれもなくつぶあんだったと断言してはばからないつぶあん派である。
こしあん派のぼくとしては、ほおっておくわけにはいかない。で、横尾さんに決闘を申し込み、決着をつけようということになった。
決闘場は、「料理王国」誌2002年11月号。そのてんまつは、いずれこの欄にも書くつもりだが、結論からいって、ぼくはぼくの勝ち、横尾さんは横尾さんの勝ちだと思っているくらい白熱したものだった。
このときもあちこちから、いいトシをしたおじさんが、なにをバカなことをやってるんだとヒンシュクを買ったが、そういうトンチンカンな非難を排除するために、この際、古代ギリシア・ローマの故事を紹介しておこうと思う。
古代ギリシアやローマの人たちは、夜な夜な、酒杯を手に徹夜でおしゃべりを楽しむ集いを開いたという。そんなおしゃべりの中身が、プルタルコスという人によって記録されているのだが、その目次を見ると、
「宴会の幹事はどういう人物であるべきか」
「なぜ秋には空腹を感じやすいか」
「鶏と卵はどっちが先か」
「ユダヤ人は豚を崇めているから食べないのか、嫌いだから食べないのか」
「アルファベットのアルファはなぜアルファベットのはじめにあるのか」
といったテーマが延々とつづいている。
そうなのだ。どうでもいいようなことを、徹夜で論じ合うことに、サイコーの楽しみを彼らは感じていたのである。
ちなみに、彼らはこれを「シンポシオン」と呼んだが、これがいまの「シンポジューム」のはじまりである。というわけで、こういうのをバカげていると思う人は、人間そのものがバカげているといっているのと同じことで、ま、人間そのものがバカげているのはたしかだけれど、だからこそ人間っておもしろいじゃないかと、ぼくは支離滅裂に思うのだ。
あああ、またこしあんとつぶあんから離れちゃった。
「あんちゃん」と「こつぶちゃん」に、「のぼさん」と「つぶあんバンザイ」が参加してくれて、このシンポシオンもたのしみになってきたようにおもう。
あ、そうそう、正岡子規のあんぱんの絵の細部から、子規がこれはこしあんだというメッセージをわれわれに送っているんじゃないかという「つぶあんバンザイ」くんの意見には驚いた。驚いて、手にしていたこしあんのあんぱんを落としてしまった。で、それを犬に食われてしまった。


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子規あんのこと [あんこ学]


四国の松山が生んだ天才、正岡子規の「仰臥漫録」には、彼が病床で食べた食事の品目が、かなりこまかく記録されている。それを見ると、不治の病いに冒され、強烈な痛みに襲われる日々のなかでも、この人は本当によくたべているなあと、驚嘆してしまう。食べること、それが彼にとっては生きることの痛切な表現でもあったのかもしれない。
なんだか文芸評論家みたいな口ぶりになってしまったぞな、ホイホイ、というわけで、何を隠そう、その食べ物のなかに、けっこうあんぱんが出てくるのだ、という話をしたかったのだよ、私は。
ちょっと、上の絵、見てくれる? これ、「仰臥漫録」の1頁だけど、4種の菓子パンのなかの、上から3番目に、「アン入り」と注がついているでしょ。そう、あんぱんですね。これがどうも、子規は大の好物だったらしい。
が、このあんが、こしあんだったか、つぶあんだったか。残念ながら、その記述はない。「写生文」というすばらしいコンセプトを提唱した子規が、どうしてここではパンのなかまで写生しなかったのか。そこがとても残念からげるところだ。(あ、これ伊予の方言)
しかし、日本におけるあんぱんの歴史から考えると、誰がなんといってもこれはこしあんであろうと、ぼくは推測する。ま、日本におけるあんぱんの歴史は、いずれくわしく書くつもり(今はまだ知らない)のだが、明治24年に子規さんがつぶあんのあんぱんなんて食うはずねえだろうと、ぼくはどうしても思うのだ。
あ、そうそう、コメントをくれた「こつぶちゃん」は、こしあんとつぶあんのほかに、日本の東と西を分ける文化はないかと言っていたが、あるんだよね、これが。そばとうどん。ボソボソ文化とツルツル文化。西日本の人って、顔がツルッとしてると思いませんか?
あ、もひとつ、「あんちゃん」の好きなもみじまんじゅうは、ぼくも大好きです。あれもこしあんじゃなきゃ困るよね。ちなみに、あなたの「3大こしあん」って、なんなのかな。教えてほしい。
あ、そうそう、松山には、子規を記念する子規庵というのがあるのですが、今回の「あん」は「庵」ではなく「餡」でした。



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全国あんこ地図 [あんこ学]


たまに、講演を引き受けることがある。で、あちこちに出かけることになるのだが、機会があれば会場で、「あんこはこしあんが好きか、つぶあんが好きか」と聞いてきた。
その結果、ぼくは偉大な発見をしたのだが、概して東日本はつぶあん派が、西日本はこしあん派が多いのだ。
なぜか。わからん。でも、この分布は、「バカ派」と「アホ派」の分布によく似ている。よく知られているように、愚かしいやつを「バカ」と呼ぶか「アホ」と呼ぶか、地域によってはっきり違うのである。これは、こじつけでも、偶然の一致でもないだろう。つまり、文化の違いなのだと思う。
今夜はしんどいので、汁粉を食べてもう寝ることにするが、ぼくの偉大な発見を「バカ」と思うか「アホ」と見るか、それももまた、地域によって違うのだ。
汁粉、もうできたかな。


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