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ことばの距離 [ことばの元気学]

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N響の「第9」を聴いてきた。国立音楽大学合唱団が圧倒的だった。うまいなあ。すごいなあ。
指揮のヘルムート・リリングは、バッハのスペシャリストだと思っていたが、ベートーヴェンやシューベルトも振るらしい。端正な音づくりで、これもなかなか聴きごたえがあった。

でもなあ、やっぱり「第9」は長いよなあ。繰り返しが多いしなあ。もうちょっと刈りこめないのかなあ。
あの延々と続く音の連なりに身をゆだねる快感、というのもわからないではないけれど、それにしてもなあ、人間の時間感覚も変わってきてるし、年末だしなあ。
なんて思ったのだが、うかつにそんなこと言ったら、世の音楽好きの人に怒られるだろうなあ。
なんてったてベトちゃんは、「楽聖」だからなあ。「不世出の天才」だからなあ。

あ、「ベトちゃん」なんて言うのもいけないんだろうなあ。
でも、これはぼくが言ったわけじゃない。中原中也さんの借り物。

月の光のそのことを
盲目少女に教へたは、
ベートーヴェンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちゃんだとは思ふけど、
シュバちゃんではなかったらうか

おぼえているくらい好きだった「お道化うた」(「在りし日の歌」)の一節だが、中也さんのようにベートーヴェンのことをベトちゃん、シューベルトのことをシュバちゃんと言ったって、別にかまわない、それくらい好きだってことだと思うんだよな。
そう、モーツアルトをモーちゃん、バッハをバーちゃんと呼んだって、べつにいいのだ。その言い方に愛情さえこもっていれば。MJQの「ブルース・オン・バッハ」なんてCDを聴けば、ジャズにされてもバッハは怒らない、むしろ面白がっているに違いないと思えるはずだよね。

ことばは、対象との距離をつくる。
「楽聖」なんてことばで呼んだとたんに、ベトちゃんは雲の上にまで遠ざかってしまう。
モーちゃんだって、モーツアルト様なんて呼ばれたら、くすぐったがって逃げていくに違いない。
愛する人を、もっとだいじにしなきゃ。

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