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よっ!大納言! [あんこ学]

古くは中国から、新しくはアメリカから、この国を襲った大津波の話をしましたよね。そのたびにこの国はびしょびしょになるんだけど、水没はしない。日本式に水を吸い込んじゃう。で、縄文クッキーからアンパンまで、この国のお菓子も、それにつれて変遷してきました。その変遷について、いままでお話してきたことを整理すると―

まず、飛鳥・平安時代にやってきた中国津波の第1波で、「唐菓子」が入って来る。中山圭子さんの「和菓子ものがたり」(朝日文庫)によると、小麦粉や米の粉をこね、花や虫や縄などの形にして油であげたものらしい。そのほかにも、ソーメンやホウトウの元祖みたいなものも、この時期に入ってきたようです。ただし、砂糖はこの時代には貴重な輸入品で、唐菓子の甘味はもっぱら甘葛(あまずら)に頼っていたようです。清少納言のたべた氷みぞれのことを思い出してください。

次は鎌倉・室町時代にやってきた中国津波の第2波で、中国に留学していた禅僧たちが「点心」を日本に伝えます。「てんしん」じゃない、「てんじん」と読んでください。点心とはいまの「てんしん」と同じで、食事と食事の間にたべるものですね。その代表選手は、羹(かん)と饅頭でした。前にも言いましたが、羹はとろみのある汁物で、羊羹もそのひとつ。ただし、羊羹も饅頭も、砂糖を使ったものは高級品で、ふつうは饅頭の餡も肉や野菜を使ったものが一般的だったようです。ほら、肉まんの餡を思い出してください。

次は、戦国時代に、南蛮津波に乗ってポルトガルやスペインからやってきた「南蛮菓子」です。ポルトガルやスペインがなぜ「南蛮」か。それは、ポルトガル人やスペイン人が本国からではなく、彼らが交易していた南方の土地から日本にやってきたからです。彼らが伝えた南蛮菓子は、カステラ、金平糖、ビスケットなどなど。その特長は、卵や油を使ったものが多く、また砂糖もたっぷり使われていて、これが以後の日本のお菓子にも大きな影響をあたえました。が、徳川幕府の鎖国政策で、ヨーロッパの影響は一応せきとめられてしまう。それがどっと流れこんでくるのは、次の文明開花津波まで待たなければなりません。

ただ、結果として日本の鎖国政策は、和菓子の進化と成熟に大きく役立つことになりました。江戸時代になると、砂糖の国産化もすすみ、甘いものが庶民の口にも入るようになる。で、茶の湯の普及とともに、上質の餅やあんこを使った和菓子がどんどん現れてくるようになったのです。
その拠点になったのは、やはり京都ですね。京都は日本一ひまな町ですから、もう、手間に手間をかけて菓子を洗練していく。そう、菓子の「新古今集」を作っちゃったわけです。

それまでの日本の菓子は、どっちかというと、「万葉集」でした。おおらかでした。それが京都人の手にかかるとどんどん変わっていく。食ってうまきゃいいなんて、そんな粗野なもんじゃないんですね。そう、お菓子は五感で楽しんでおくれやす、ということになる。まず、四季の自然を模したデザインを目で楽しむ。次に、凝ったネーミングを聞いて耳で楽しむ。そして、香りを鼻で楽しみ、口に入れてその触感を楽しみ、舌でその深い味わいを楽しむというわけです。ああ、しんど。

さらに、教養も要る。ここがいかにも京都なんですね。テレビで知ったんですが、たとえば「鹿の声」というお菓子があります。そのイメージは、「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」という猿丸大夫の歌からとっているんですね。あるいは、「岩うつ波」というお菓子。この場合の原イメージは、「風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けてものを思ふころかな」という、源重之が書いた美しくも悲しい恋の歌に由来しているんですって。

さて、これを聞いて、「いいですねえ、わびですねえ、優雅ですねえ」と思うか。それとも、「おいおいおい、たかが菓子じゃねえか、てえげえにしてくれよ」と思うか。その違いから生まれる文化的葛藤が、その後の菓子の歴史を作っていく。もう、おわかりですね。前者は西日本人(弥生人)、後者は東日本人(縄文人)のせりふです。これまで、タテの流れの中で進化をしてきた日本の菓子が、ここからはヨコのゆれのなかで深化をしていくわけですが、その整理はまた次回の話にして、これ、明治屋の棚にあった大納言です。小豆に「大納言」なんて。清少納言なんてメじゃない、大伴家持や藤原定家だって中納言どまりでっせ。おおげさというか、しゃれているというか、良くも悪くも、こんなところに日本文化の面白さが煮詰まっているんじゃないでしょうか。


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銀鏡反応

よっ!大納言!!というわけで、小豆が大伴家持や藤原定家よりも上品な味わいだから、豆でありながら「中納言」の上を行く「大納言」の位を授かったのでしょう。
それにしても、和菓子の系譜はやはり唐菓子からきているんですね。自分も雑誌「サライ」で「清浄歓喜団」という唐菓子を見たことがあるのですが、あのきんちゃく型不思議な印象です。なかにいろんな薬味が入っているそうですが、食べるとさぞ、古来東洋のハーブの味わいが口の中に広がるのではないかと思われます。
この「歓喜団」も京都の老舗で作られているものなのですが、ほんと、京都には詫び寂びと華やかな大和絵風情がない交ぜになって、これぞ日本文化!という感慨を抱かせてくれます。といっても、私は京都はおろか、京阪神地区には中学の修学旅行以来、一度も行っていないのです。嗚呼、行きたいなァ。
by 銀鏡反応 (2006-04-06 17:54) 

スティッチの親分

大納言小豆を辞書で調べたら、尾張大納言の洒落と書いてあったのですが、意味が分からないオバカさんの私です・・
「鹿の声」と言うお菓子は知らず、「鹿の糞」って言うお菓子は奈良にある有名なお菓子だと知っていた、やはり大バカ者の私です・・
しかも「鹿の糞」のお菓子の歌まで知ってる私ってイッタイ・・トホホ・・
和菓子の歴史がこんなに日本文化に深くつながってるとは!
本当、このブログ読むだけで自分がおりこうさんになった感じがします♪
明治屋さんに「あんこジャム」がありました!新発売です!
天野さん、食べましたか?
私はトラヤさんのあんこジャムの方が美味しかったと思うけど
トラヤさんのジャムはすっごく高くてなかなか買えない貧乏な私です・・
京都って、今の日本の中でも別品な場所だと思います。
だって、いまだに舞妓さんや芸妓さんがいて昔の日本の文化を守り続けているんですもの・・
でも私は見ました・・舞妓さんが仕事終わって着物のまま、ディスコやクラブで踊ってたのを・・
今の舞妓はんはトーキョー人でしょうか???
by スティッチの親分 (2006-04-07 18:24) 

銀鏡反応

>スティッチの親分様
えっ???イマドキの舞妓さんの中にも、あのだらりの帯の姿のまま、ディスコやクラブで踊りまくる人っているんですか!そーなんですか。
いやあ、21世紀って舞妓さんもクラブで躍る時代なんですねェ…
(´ε`);
京都も少しずつだが、何だか、渋谷・アキバ系のトーキョーの“サブカル”文化がそのまんま入りこんでいる気がするなぁ…。
やばいやばい。このままいったら、けっこうやばいです。
だからこそ!京都は昔ながらの日本の粋を秘めた文化を護りつつも、新しいものを吸収し、咀嚼して、京都ならではの文化を創造していかなくては…。だってそれが京都のもう一つの特徴だと思うのです。ハイ
by 銀鏡反応 (2006-04-09 17:20) 

スティッチの親分

>銀鏡反応様
そうどすぅ・・京都の先斗町や祇園の舞妓はん達は、10年ちょっと前あたりからガラっと変わってきてしもたえ~。昔なら「ケントス」とかでお仕事終わったら、着物のまま踊ってましたえ~(汗;)
舞妓さんも生粋の京都っ子ってもうおらへんのどす・・地方の女の子が京都で舞妓になりたいと来はって、まずは京都弁を覚えはるんです。
今はコンパニオン化してしもたえ~(シクシク・・)
それでも、踊りを覚えはったり芸を磨いてはるんどすけど、やっぱり変わってしまいましたえ~。クラブで踊ってはりました・・
イケイケドンドンの舞妓はんが多おなって悲しいことでんねん。
何故、私がそんな事知ってるのかと疑問持ちはりますよね・・
実は舞妓はんと芸妓はんに友達がおりますねん。
でお仕事が終わったらクラブで合流して一緒に私も踊ってしもたんどす~(スンマヘン;)
ほんなら、その他にもいっぱい舞妓はんや芸妓さんが遊びに来て踊りまくってた姿を見てしもたんどすぅ~
やばいどす・・ほんまにやばいどす・・
トーキョー人ばかりどした・・
京都の本当の文化を守りたいどす!でも、舞妓はんや芸妓はんに聞くとお客さまのお金の使い方とか遊び方が変わってしもて、どないもこないもならしまへん!と言っとりました・・
昔の粋な遊び方が出来る人が少なくなって文化が貧乏になったのは、
こんな所にも現れてしまいましたね・・悲しいことどす・・シクシク・・
by スティッチの親分 (2006-04-10 21:40) 

gillman

おはようございます
 大納言、確かに言われてみるとなんとも大仰な名前ですよね。ま、昔は「赤いダイヤ」なんて相場でも呼ばれていましたからね。
 洋菓子職人がおねえちゃん達にパティシエなんて騒がれているのをみるとちょっと複雑な気持ちですね。菓子屋の倅として見ていた親父の背中は、なんか、こう、もっと無骨で一所懸命な感じでしたから。
 親父が和菓子の中でも滅び行く乾菓子・興し(おこし)の職人だったせいかも知れません。洗練されて文化的な道を辿った京の菓子に対して負い目のようなものを少し感じていたのかもしれません。自分の菓子が品評会で入選したときはえらく喜んでいたのを覚えています。親父は京の職人があんこに対してもっていた執拗なこだわりと同じように興しの「種(タネ)」に強いこだわりを持っていました。今考えるとそれが親父が持っていた東の菓子職人のプライドだったのかも知れません。
 すいません、ちょっと違う話になってしまいました。
by gillman (2006-04-12 07:40) 

あまの

「銀鏡反応」さん。ぼくも100%濃縮還元の東国人ですが、やっぱり、上方にはいいところがありますね。

「スティッチの親分」さん。寡聞にして「鹿の糞」は知りませんでした。ふしぎな方ですね、あなたは。

「gilman」さん。違う話どころか、いつもいい話を聞かせてくれてありがとう。おこしの職人さんって、会いたかったなあ。
by あまの (2006-04-13 22:24) 

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